高倉健の学歴・経歴・生い立ち〔大学 高校 中学校 小学校〕

学歴 高倉健 俳優

映画「ブラック・レイン」「ぽっぽや」などで知られる俳優の高倉健さん。
生涯で205本の映画に出演しました。
この記事では高倉健さんの学歴、経歴、生い立ちについて紹介しています。

高倉健の学歴

高倉健の学歴

小学校  北九州市立池田小学校
中学校  旧制東筑中学校
高校   東筑高校
大学   明治大学

高倉健の小学校

高倉健さんの出身小学校は 北九州市立池田小学校

1931年2月16日、福岡県中間生まれ。本名は小田 剛一(おだ たけいち)。兄と2人の妹がいる4人きょうだいの次男で、家庭は裕福でした。
父親は旧日本海軍の軍人で、戦艦「比叡」などを経て、炭鉱夫の取りまとめ役などを務め、母親は元教員で和裁や生花を教えていました。

小学校は現在の中間市立中間小学校に入学しました。
幼少期の頃から体が弱く、2年生の時には結核の初期症状が出たために1年間学校を休学。
この時、心配した母親が何とか滋養をつけさせようと、兄妹の食事とは別に毎日ウナギを食べさせたといいます。
復学の時は北九州市立本城小学校に転校し、その後、疎開で北九州市立池田小学校に転校しました。

高倉健の中学校

高倉健さんの出身中学校は 旧制東筑中学校

福岡県北九州市八幡西区東筑一丁目にある現在の東築高校にあたります。
中学時代に終戦を迎えると、アメリカの文化にふれ、その中でもボクシングと英語に興味を持ち、学校に掛け合ってボクシング部を設立。
夢中になって練習し、ボクシングを始めてから体も丈夫になったといいます。
試合での戦績は6勝1敗でした。

高倉健の高校

高倉健さんの出身高校は 東筑高校 (偏差値70)

旧制東筑中学校で、高倉さんが在学中の1948年に学制改革で高校として開校。開校時は男子校で翌年から男女共学になっています。
高倉さんは当時あった商学科に入学。商学科は1959年に分離され、折尾高校として独立しました。
出身者には漫画家の国友やすゆきさん、お笑い芸人の吉住さんなどがいます。

高校時代もボクシングを続けながら、英語を学ぶために英会話研究会のESS部も創設。
アメリカ映画を見て英語の発声、発音を勉強し部長も務めました。

高倉健の大学

高倉健さんの出身大学は 明治大学 商学部商学科(偏差値63)

東京都千代田区神田駿河台一丁目に本部がある私立大学。
商学部のキャンパスは、1・2年次が杉並区永福の「和泉キャンパス」、3・4年次が千代田区神田駿河台の「駿河台キャンパス」。
高倉さんは貿易商になることを目指して商学部に入学し、大学でも英語の勉強は続けていました。
大学時代は海軍時代に相撲が強かった父親の言いつけで、相撲部に入部しましたが1年で退部しています。

コーヒーやチョコートを好み、お酒は飲まなかったことで有名な高倉さんですが、大学時代には焼酎などよく飲み、酒とケンカに明け暮れていたといい、1度酒に酔ってタクシーの運転手を殴ったことがあり、それ以来飲まなくなったといいます。

大学卒業後は思ったような就職先がなく、故郷に戻りました。

高倉健の経歴 スカウトされて芸能界入り

高倉健のプロフィール

名前   高倉健
生年月日 1931年2月16日
没年月日 2014年11月10日(83歳没)
出身   福岡県中間市
身長   180cm
血液型  B型
所属   高倉プロモーション

大学卒業後、1度は九州に戻った高倉さんでしたが再び上京。
大学時代の友人のツテで、当時、美空ひばりさんが所属していた新芸プロのマネージャーになるため喫茶店で面接を受けていると、たまたま居合わせた東映東京撮影所の所長で映画プロデューサー・マキノ光雄さんにスカウトされ、1955年、24歳で東映ニューフェイス第2期生として東映へ入社し芸能界入りしました。

任侠映画でブレイク

ニューフェイスは入社後、俳優座演技研究所で6か月の基礎レッスンを受けた後、東映の撮影所でエキストラ出演など6か月の修行を経験することになっていましたが、高倉さんは俳優座研究所のレッスンで

『他の人の邪魔になるから見学していてください』

と言われたほど、落ちこぼれだったといいます。 しかし、入社後、1ヶ月半で主役デビューが決定し、1956年1月公開の映画『電光空手打ち』でデビュー。
「高倉健」の芸名はこの時に、マキノさん知人に付けられました。
高倉さんはデビュー映画の役名「忍勇作」を気に入り芸名に希望しましたが、却下されたといい、嫌々ながらの「高倉健」での芸名デビューだったといいます。

その後は、アクション映画、喜劇、刑事物、青春物、戦争映画、文芸作品、ミステリ映画など、幅広く現代劇映画に主演・助演として出演し東映から期待は大きかったものの、芝居の硬さが目立ち、ヒット作はでませんでした。

しかし、高倉さんのスター性を見抜いた、当時東映東京撮影所の署長だった岡田茂さんは、不発続きの高倉さんを辛抱強く使い続け、ギャング路線で主役を張るようになり、1963年3月公開の大作映画『人生劇場 飛車角』の準主役に抜擢。本格的な大作の準主役級の役は初めてでした。
高倉さんは同映画で義理と人情に生きる侠客・宮川健 役を好演し映画も大ヒット。

このヒットで東映では任侠路線の映画が製作されるようになり、高倉さんは1964年に降板したた中村錦之助にさん代わり『日本侠客伝』に出演すると、高倉さんの寡黙な立ち姿と眼力から大ヒットし、33歳でブレイクしました。

以降は仁侠映画を中心に活躍しやくざ役を好演。ストイックなイメージを確立し、1965年から始まる『網走番外地』シリーズ、『昭和残侠伝シリーズ』などに出演し東映の看板スターとなり、

『鍛えられた体の背筋をピンと伸ばし、寡黙であり、不条理な仕打ちに耐え、言い訳をせずに筋を通し、ついには復讐を果たす』

という高倉さん演じる主人公は、当時の男性に熱狂的な指示を集め、歌った『網走番外地』シリーズの主題歌は「反社会的な風潮の助長するおそれがある」として放送禁止の指定を受けましたが、公称200万枚売り上げました。

「幸福の黄色いハンカチ」で日本アカデミー賞を受賞

1970年に「ヤクザ映画にも出演し続けるが、好きな映画を作る自由も認めてほしい」と当時の東映社長・大川博さんに交渉して了承をもらい、高倉プロを設立。

1973年に『仁義なき戦い』がヒットすると、東映は実録路線に移行したことから、高倉さんは 、

『このまま東映にいたら、ヤクザ役しかできなくなる』

との危機感を持つようになり、1976年に東映を退社しフリーに転向。以降も東映の映画には出演しましたが本数規約でした。

同年に『君よ憤怒の河を渉れ』に代議士役で主演を務め、仁侠映画のイメージから脱却。
翌年の1977年には『八甲田山』、『幸福の黄色いハンカチ』の2作品に主演し、同映画の演技で、

第1回日本アカデミー賞・最優秀主演男優賞
第20回ブルーリボン賞・主演男優賞

のダブル受賞に輝きました。

日本アカデミー賞・最優秀主演男優賞は、その後も1981年『動乱』、『遥かなる山の呼び声』、1982年『駅 STATION』、2000年『鉄道員(ぽっぽや)』で4回受賞しています。

1983年出演した『南極物語』は興業収入110億円を記録。1989年にはハリウッド映画『ブラック・レイン』に出演しました。

出演はほとんどが映画で、生涯で205本に出演。テレビドラマには1956年から1993年までで出演したのは5本だけでした。

高倉健の結婚歴や妻、子供

高倉健さんの結婚歴は1度で、1959年2月、28歳の時に6歳年下で歌手・女優の江利チエミさんと結婚。
馴れ初めは1956年の映画『恐怖の空中殺人』での共演でした。

『夫婦の家に家政婦として入り込んでいた江利の異父姉Y子が2億円を横領。さらに高倉にまで触手を伸ばしていたこと』

江利さんの異父姉の様々なトラブルがあり、江利さん側からの申し出で結婚12年目の1971年9月に離婚。

子供はいませんでした。
江利さんは妊娠しましたが、重度の妊娠中毒症を発症し、中絶を余儀なくされ子宝には恵まれなかったそうです。

離婚から11年後のの1982年2月13日に、江利さんは脳卒中と吐瀉物誤嚥による窒息のため、45歳の若さで他界。高倉さんは江利さんの命日には毎年、墓参りは欠かさなかったといいます。

再婚はしませんしたが、1996年にに香港のホテルで出会った33歳年下の女優・小田貴月さんと交際。高倉さんは1度離婚した経験から、

『紙(婚姻届)に縛られるのは違うんじゃないか』

と考えていましたが、自分よりも若い、小田さんの母親が脳梗塞で倒れた際に、親族でないと病状を聞くことも病室で看病することも出来なったことから考えを変え、2013年に婚姻ではなく「養女」として関を入れて親族になっています。

高倉健の死因や晩年

2005年の中国・日本合作映画『単騎、千里を走る。』の主演を務めて以降は、CMには出演していましたが、俳優の仕事からは離れていました。
2012年8月に映画205本目の主演作品となる映画『あなたへ』で俳優に復帰。
2013年10月には「文化勲章」を受賞しました。

次回の主演映画『風に吹かれて』の撮影が決まっていましたが、2014年の正月に食欲が不振になり、体調に変化が現れたため4月に検査入院すると、悪性リンパ腫と診断。
その後は、「入院中の姿を見せたくない」と親しい関係者だけにしか病状を知らせず、抗がん剤治療を行いましたが、2014年11月に入って容態が急変し、2014年11月10日に、悪性リンパ腫のため83歳で亡くなりました。

2012年8月に公開された映画『あなたへ』が遺作となりました。

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