ドラマ映画から『男はつらいよ』に出演し、寅さん映画になくてならない存在だった佐藤蛾次郎さん。
若い頃は、アフロヘアーがトレードマークでした。
この記事では佐藤蛾次郎さんの学歴、経歴、生い立ちについて紹介しています。
佐藤蛾次郎の学歴
佐藤蛾次郎の小学校
佐藤蛾次郎さんの出身小学校は 高石市立高石小学校
大阪府高石市生まれ。本名は佐藤 忠勝(さとう ただかず)。4男7女11人兄弟の10番目。
父親は医師で、近所の八百屋屋や魚屋が治療を受けると、治療費がわりに野菜や魚を持ってきてくれていたといいます。
卒業した高石市立高石小学校の出身者には、元日本代表監督でJリーグ初代チェアマンを務めた川淵三郎さんなどがいました。
小学校時代の成績はよかったといいます。
父親に連れて行ってもらって嵐寛寿郎さんの時代劇映画を観て憧れ、1963年、小学4年生の時には姉の勧めで、大阪朝日放送児童劇団の1期生募集に応募。
応募者120人の中で合格者の6人に入り入団し、1954年にラジオ・ドラマ『風の又三郎』でデビュー。1956年には宝塚映画『漫才長屋は大騒ぎ』で映画デビューしました。
佐藤蛾次郎の中学校
佐藤蛾次郎さんの出身中学校は 高石市立高石中学校
中学時代は原子力に憧れて、科学部に入部し部長を務めました。
子役活動も続け、2年、3年生の時には大阪の舞台を中心に活動していました。
中学卒業と同時に大阪朝日放送児童劇団は退団しています。
佐藤蛾次郎の専門学校
佐藤蛾次郎さんの出身専門学学校は 日本電気技術専門学校
中学卒業後は高校には進学せずに、専門学校の日本電気技術専門学校に進学。
大阪市東淀川区にある専修学校で、現在の名称は日本理工情報専門学校。
中学卒業には劇団アカデミーに所属にも所属し俳優活動も続け、専門学校は卒業はせずに中退してしています。
1961年、16歳の時にフジテレビ系のドラマ『神州天馬侠』で泣き虫蛾次郎 役を演じ、監督の勧めで芸名を佐藤蛾次郎としました。
佐藤蛾次郎の経歴
1968年にはテレビドラマ『男はつらいよ』に寅さんの自称実弟の川島雄二郎 役を演じ、1969年からは映画『男はつらいよ』に柴又題経寺の寺男で寅さんの舎弟・源公 役で出演。2019年の最新作まで出演し、寅さん映画には欠かせない存在になりました。
唯一、1971年の8作目『男はつらいよ 寅次郎恋歌』だけはポスターには名前が記載されているものの、出演はしていません。
撮影の1週間くらい前に、友人が運転する車の助手席に乗っていたところ、友人がガードレールに突っ込む事故を起こし、肋骨が5本折れる重体で2ヶ月入院することになり撮影には参加できませんでした。
若い頃はアフロヘアーがトレードマークで、映画『戦国自衛隊』、テレビドラマ『柳生一族の陰謀』『服部半蔵 影の軍団』、などの時代劇でも丁髷のカツラを被らず出演し、アフロヘアーは売りにもなっていました。
料理が得意で、1974年には新橋駅近くにスナック『撫子』を開店。1977年に東京都中央区銀座へ『PoPo』として移転。
1996年10月からは銀座でカラオケスナック『Pabu 蛾次ママ』を妻の和子さんとと開店しました。
名物メニューは2日酔いしないという薬膳カレーでしたが、2020年12月にコロナ禍の影響で閉店しています。
佐藤蛾次郎の妻や子供
佐藤蛾次郎さんが結婚したのは1972年。妻は新劇女優だった和子さん。
同年12月公開の『男はつらいよ』シリーズの10作目『男はつらいよ 寅次郎夢枕』では冒頭で、「お転婆のさっちゃん」という女性の花嫁役で和子さんが出演。
監督や渥美清さんなどの主要キャストが、当時、お金がなく、籍も入れられらずに同棲暮らしだった佐藤さんを見かねて、妻の和子さんを出演させ、映画のセットを使って2人の結婚式も行いました。
和子さんは2016年に、多発性骨髄腫のため68歳で死去。
子供は息子と娘の2人で、1973年に息子、1975年に娘が誕生しています。
長男の佐藤亮太さんは俳優で、舞台を中心に活動し、『Pabu 蛾次ママ』の経営もしていました。
佐藤蛾次郎の晩年と死因
佐藤蛾次郎さんは2022年12月10日に78歳他界。
死因は虚血性心不全とみられています。
同日の午前10時過ぎに東京都世田谷区の自宅浴室で風呂に浸かった状態で動かなくなっているのを親族が発見し、その場で死亡が確認されたといいます。
2020年以降は目立った活動はしていなかったようです。
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