俳優として活躍し、バラエティ番組でもトレードマークの「ねじねじ」で親しまれた中尾彬さん。
この記事では中尾彬さんの学歴、経歴、生い立ちや、結婚歴や妻、子供、晩年や死因などについて紹介しています。
Contents
中尾彬の経歴・プロフィール
中尾彬の小学校
中尾彬さんの出身小学校は 木更津市立木更津第二小学校
千葉県木更津市出身。実家は酒屋で5人兄弟の長男として誕生しました。
3歳の時に終戦を迎えましたが、戦時中にサイレンが鳴って防空壕に入った記憶がかすかに残っているといいます。
子供の頃はヤンチャでガキ大将でした。
小学校は千葉県木更津市文京5丁目にある木更津第二小学校に入学。
小学生の時には映画をたくさん観て俳優に興味を持ち、小学2年生の時には父親に「俳優になる」と宣言し、作文にも「将来役者になる」と書いていたといいます。
小学4年生の時に全国絵画コンクールで文部大臣賞。
翌年も別の賞を受賞し2年連続で受賞したことで「自分は絵が得意」と自覚したそうです。
中尾彬の中学校
中尾彬さんの出身中学校は 木更津市立木更津第二中学校
千葉県木更津市請西にある公立中学校。
中学時代は陸上部に所属していました。
勉強の成績もよく、絵を描くことも続けていました。
中尾彬の高校
中尾彬さんの出身高校は 木更津第一高校 (偏差値67)
千葉県木更津市文京4丁目にある男女共学の千葉県立高校。
1961年に木更津高校に改称されました。
出身者には元衆議院議員の浜田幸一さん、俳優の千葉真一さんなどがいます。
高校時代は美術部とバレーボール部をに所属。
高校1年生から陸上部の1年先輩していたいことから後に陸上部にも入部しました。
陸上部では走り幅跳びで千葉県大会で4位に入賞し、国体にも出場。
1960年、高校2年生の時には油彩画「石の花」が千葉県美術展に入選しています。
子供の頃からの夢だった俳優になるために雑誌などを読んで、役者の基本を独学で勉強もしていました。
中尾彬の大学
中尾彬さんの出身大学は 武蔵野美術大学 油絵学科 (偏差値50)
東京都小平市小川町1丁目に本部がある私立大学。
油絵学科は現在は造形学部油絵学科。
1961年に入学しましたが、1962年には中退しています。
中尾彬の学歴
俳優になったきっかけ
1961年に武蔵野美術大学油絵学科に入学後、翌年の1962年に日活ニューフェイスの第5期のオーディションを受け合格。
映画デビューしましたが、絵画の夢も捨てきれずに大学を中退後、フランスに留学。
留学期間を短縮して1964年に帰国後は劇団民藝に研究生として入団。
絵画に道は諦め、本格的に俳優の道に進みました。
「暴れん坊将軍」で初代徳川宗春役
1964年3月4日から公開された加賀まりこ主演の映画『月曜日のユカ』で俳優デビュー。
期待の新人として注目を集め、1970年に日活と民藝を離れてフリーになってからはテレビドラマでも活躍しました。
1975年には「金田一耕助シリーズ」の映画『本陣殺人事件』で主人公の金田一耕助を演じました。
1978年から『暴れん坊将軍』(テレビ朝日)で初代徳川宗春役を演じ、これが当たり役となり、1996年の『暴れん坊将軍VII』まで出演しました。
1998年には『GTO』(フジテレビ系)で教頭の内山田ひろしを演じて注目され、バラエティ版番組やコメンテーターとしても活躍しました。
「ねじねじ」のきっかけ
中尾彬さんのトレードマークだった「ねじねじ」のストールを始めたのは2000年頃からでした。
きっかは神田正輝さんで、ドラマのロケでインドネシアを訪れていた時にトラブルで飛行機が飛ばなくなったといいます。
空港で寝ていると首が寒くなり、ストールを「ねじねじ」していると神田さんに「それカッコイイですね」と言われ、「ねじねじ」のストールでバラエティ番組に出演しすると話題になり、トレードマークになりました。
結婚歴や妻、子供
中尾彬さんの結婚歴は2度。
最初の結婚は1970年、23歳の頃で、妻は同い年で女優の茅島成美さん。
同年に息子が誕生しましたが、結婚5年目の1975年に中尾さんの不倫が発覚し離婚。
離婚後、息子は茅島さんが引き取り、離婚以降中尾さんは息子とは一度も顔合わせることが出来なかったといいます。
茅島さんは1990年に会社員の男性を再婚しています。
中尾さんが再婚したのは離婚から3年後の1978年、36歳の時でした。
妻は13歳年下で女優の池波志乃さん。
池波さんの父親は父親は落語家の10代目金原亭馬生、祖父は5代目古今亭志ん生、叔父は3代目古今亭志ん朝と落語家一家。
馴れ初めはテレビ時代劇での共演で、2人ともお酒が好きだったことから意気投合。
『実は、最初、挨拶に彼女の家を訪ねたときは、まだ離婚が成立していませんでした。先方が提示した慰謝料などの条件を私が受け入れるだけになっていて』
再婚後はおしどり夫婦として知られました。
晩年や死因
ドラマ、映画、バラエティ番組で活躍していましたが、2024年に入ると体力の低下などからメディアでの露出は減っていました。
体調に配慮しながら仕事をしていましたが、2024年5月15日に容体が急変。
翌日の5月16日に心不全のため、東京都内の自宅で死去。81歳没。
最期は妻の池波さんが看取りました。
最期の出演は2024年1月に文化放送で生放送されたラジオドラマ『小松左京クロニクル・日本沈没を探す旅』の新春特番での俳優の伊東四朗さんと対談でした。
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