具志堅用高の学歴・経歴・生い立ち〔大学 高校 中学校 小学校〕

学歴 具志堅用高 スポーツ

元プロボクサーで13度の世界王座防衛記録を持つ具志堅用高さん。
ボクシングと出会ったのは高校受験に失敗したことがきっかけでした。
この記事では具志堅用高さんの学歴、経歴、生い立ちや、ボクシングとの出会い、結婚や妻、子供などについて紹介しています。

具志堅用高の経歴・プロフィール

具志堅用高のプロフィール

名前   具志堅用高
生年月日 1955年6月26日
出身   沖縄県
身長   162cm
血液型  A型
所属   太田プロダクション

具志堅用高の小学校

具志堅用高さんの出身小学校は 石垣市立石垣小学校

沖縄県石垣市出身。兄、姉、弟がいる4人兄弟の3番目。
父親はカツオ漁船の船長。朝早く漁に出て、帰宅は夜遅く、無口な人で怒られた記憶はないといい、母親は夏はカツオ節工場、冬にはサトウキビの収穫の仕事をしていたといい、父親とは対象的によく怒られたそうです。

生まれた時は未熟児で体が弱かったそうですが、物心ついた時にはわんぱくで外を走り回る子供だったといいます。
生活は貧しく、牛乳の飲める家に憧れていました。

小学校は沖縄県石垣市石垣にある石垣小学校に入学。
当時の石垣島は車はほとんど走ってなく、信号や街灯もなかったそうです。
米国統治下でしたが、その影響は感じなかったといいます。
小学生の時は友達の中で最も小柄でしたが、運動神経はよく走るのは一番速く、6年生の時には全島陸上大会の1000mに石垣小学校代表として出場。
学校が終わると海で泳いだり、野山を駆け回って遊んでいました。

具志堅用高の中学校

具志堅用高さんの出身中学校は 石垣市立石垣中学校

沖縄県石垣市新川にある公立中学校。出身者には俳優の大地康夫さんなどがいます。
中学時代は野球部に所属。具志堅さんは左利きですがグローブが右利きしたなかったため、野球では右投げでした。
中学に入ると他の生徒との体格差が広がり、野球部でレギュラーになれず、3年生になると野球に見切りをつけて卓球部に入部。
卓球は向いていてレギュラーにはなれましたが、全島大会の2回戦止まりだったといいます。
パイナップルやサトウキビを運ぶアルバイトもしていて、本土復帰前だったことから給料は1日で50セントぐらいだったそうです。

具志堅用高の高校 ボクシングに出会う

具志堅用高さんの出身高校は 興南高校 (偏差値49~53)

沖縄県那覇市古島1丁目にある男女共学の私立高校。
野球部は古豪で過去には何人ものプロ野球選手を輩出。
ハンドボール部も強豪で、2003年以降で6度のインターハイ優勝を成し遂げています。

高校受験では地元の沖縄県石垣市真栄里にある八重山商工高校を受験しましたが、名前を書き忘れて不合格になり、沖縄本島の興南高校に進学。
これが人生の分かれ道だったといい、八重山商工に入って石垣島の残っていたら違う人生を送っていただろうと話しています。

野球部に入ろうとしたら身長が低いことを理由に入部を断られ、1生の2学期に同級生に誘われてボクシング部の練習を見学。
「背が低くてもボクシングなら出来る」とボクシング部に入部しました。
当初は殴られて鼻血を出して楽しくはなかったそうですが、3ヵ月後の初めての試合で勝利したことがきっかけでボクシングに夢中になり素質が開花。
3年生の時にはでインターハイ・モスキート級優勝を果たしました。

具志堅用高の大学

具志堅用高さんの出身大学は 拓殖大学 商学部 (偏差値45)

東京都文京区小日向3丁目に本部がある私立大学。
出身者にはタレントの所ジョージさん、綾小路きみまろさんなどがいます。

同大学には体育推薦入試に合格し入学が決まっていました。
ボクシングでオリンピックを目指そうと荷物も拓殖大学の合宿所に送り、合宿所に入ろうと羽田空港に降り立つと、協栄ジムの金平正紀会長の命を受けた高橋勝郎マネージャーが待ち構えており、説得され半ば強引に勧誘されて協栄ジムに入門。
拓殖大学には通うことはなくプロボクサーに転向しました。

大学は後に法政大学の通信制を卒業したといわれてるようです。

具志堅用高の学歴

具志堅用高の学歴

小学校  石垣市立石垣小学校
中学校  石垣市立石垣中学校
高校   興南高校
大学   拓殖大学

世界王座を13度防衛

1974年5月、18歳の時にフライ級の4回戦でプロデビュー。
デビュー戦は僅差の判定勝で勝利しましたが、ジュニアフライ級(現・ライトフライ級)が新設され階級を転向すると実力を発揮し、日本上位クラスに4連勝。
1976年1月には世界ランキング3位のセサール・ゴメス・キー(アメリカ)に7回KO勝ち。
同年の10月にはWBA世界ライトフライ級王者ファン・ホセ・グスマン(ドミニカ共和国)にも7回KO勝ちし、9戦目で世界チャンピオンを獲得。

「カンムリワシ」の異名は王座奪取後のインタビューで「ワンヤ、カンムリワシニナイン(俺はカンムリワシになりたい)」と発言したことに由来します。
以降、1980年10月のペドロ・フローレス(メキシコ)戦まで13回連続(日本男子最多記録)で防衛に成功。

1981年3月にはペドロ・フローレスと再戦。
14度目の防衛戦を行いましたが、8回と12回にダウンを奪われ、何とか立ち上がりましたが追撃され、セコンドからタオルが投入されて世界王座陥落。
試合後に網膜剥離寸前と診断され、同年に26歳で引退しました。

結婚や妻、子供

具志堅用高さんは1981年、引退後の26歳の時に2歳年下の香澄さんと結婚しました。
妻の香澄さんは具志堅さんが所属していた協栄ジム会長の知り合いの娘で、1979年春に香澄さんが協栄ジムを訪ねたことで出会ったといいます。

香澄さんは同年の夏に友達とツアーで沖縄旅行に行き、石垣島にも行きました。
当時、世界チャンピオンだった具志堅さんの実家は観光コースになっていたといい、ちょうど具志堅さんが実家に帰って来ていたことから挨拶をすると、「上がりなさい」とお茶をご馳走なったといいます。
このことがきっかけで交際に発展し、1年半の交際を経て結婚しました。
子供は息子と娘の2人のようです。

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