日本シャンション界の先駆者で、「別れのブルース」のヒット後はブルースの女王と呼ばれた歌手の淡谷のり子さん。
朝ドラ「ブギウギ」では茨田りつ子のモデルとなりました。
この記事では淡谷のり子さんの学歴、経歴、生い立ちについて紹介しています。
Contents
淡谷のり子の経歴
淡谷のり子の小学校
淡谷のり子さんの出身小学校は 不明
1907年8月12日生まれ、青森県青森市出身。本名は淡谷 規(あわや のり)。2歳年下の妹がいる長女として誕生しました。
実家は「大五阿波屋」という呉服屋で、当時は青森市内で1、2を争う呉服屋。明治から大正時代には青森屈指の豪商で、淡谷さんが生まれた頃は、30人を超える奉公人がいました。
店はいつも賑わっていて、祖母に溺愛されながら裕福な幼少期を過ごし、毎日、チョコレートやマシュマロなどの高級菓子が用意され、菓子が揃っていないと機嫌を悪くしたといいます。
しかし、1910年5月、2歳の時に菓子製造工場からの出火が燃え広がり5200戸以上が被災した「青森大火」で生家は焼失。
淡谷さんも被災し、父親は再建を目指して奔走しましたが店は人手に渡り没落。
父親は羽振りがよかった頃の放蕩グセが抜けず、淡谷さんが10代の頃に実家は破産しました。
淡谷のり子の中学校・高校
淡谷のり子さんの出身中学校・高校は 青森高等女学校・東洋音楽学校
青森市大字浦町字野脇にあった県立の旧制女学校。
1907年に創立され、戦後の1948年に学制改革で青森県立青森女子高校となった後、1950年に男子校だった青森高等校と統合され、男女共学の青森県立青森高校となりました。
現在の青森高校は青森県トップの進学校で偏差値は71。
出身者には小説家の太宰治さん、プロスキーヤーの三浦雄一郎さん、劇作家の寺山修司さんなどがいます。
実家の再建がうまくいかず父親と母親の関係が悪くなり、放蕩グセが直らなかった父親に愛想をつかした母親は1923年、淡谷さんが16歳の頃に離婚。
女学校は中退し、母、妹と共に上京しました。
上京後は音楽好きの母親の勧めで東洋音楽学校(現・東京音楽大学)ピアノ科に入学。
当時、淡谷さんは音楽にはそれほど興味はありませんでしたが、平塚らいてうの『青鞜』を愛読していた母親の、
『これからは、女の人も、男の稼ぎをあてにせずに生きていかれるように、きちんと専門的な職業を身につけておいた方がいい』
との考えから、ピアノを学べば将来は音楽教師になって生計を立てることができると勧められて入学したといいます。
入学して半年後に関東大震災が発生。住んでいた家は無事でいしたが、母親の収入は途絶え生活は厳しくなり、何日も米も食べられないこともあったといいます。
栄養失調が原因で妹が失明の危機に陥ったことをきっかけに「霧島のぶ子」と名乗り画家のヌードモデルをして妹の治療費と学費を稼ぎました。
ピアノ科に入った淡谷さんでしたが、ピアノになじめず、後にオペラ歌手を目指して声楽科に編入。
1929年、首席として東洋音楽学校・声楽科を卒業。女性の首席は東洋音楽学校で初めてのことだったといいます
淡谷のり子の学歴
別れのブルースがヒット
1929年春に読売新聞主催の「オール日本新人演奏会」で歌い、「10年に一度のソプラノ」と絶賛され、1930年『久慈浜音頭』で歌手デビュー。
ソプラノ歌手ではなく、家族を支えるための稼ぎのいい流行歌手としてのデビューでした。
1931年の古賀政男さん作曲の『私此頃憂鬱よ』がヒットし、流行歌手として知られるようになりました。
1935年にはシャンソン曲『ドンニャ・マリキータ』を発売。同曲がヒットしたことから日本におけるシャンソン歌手第1号となりました。
日中戦争が勃発した、937年に発売した『別れのブルース』が100万枚を超えるヒットを記録。
翌年に発売した『雨のブルース』もヒット。「ブルースの女王」と呼ばれるようになり、一躍人気歌手となりました。
しかし、戦争が本格化すると洋楽が禁止され、『別れのブルース』や『雨のブルース』は発売禁止となります。
他の歌手たちは、軍歌や軍国歌謡を歌いましたが、淡谷さんはそれを拒絶。
『好きな歌を歌うことを弾圧する軍から金をもらいたくない、無料奉仕なら何の歌を歌おうとかまわないではないか』
軍からお金を得たくないとの信念から、軍隊慰問に行っても金銭は受け取らず、積極的に無料で各地を回りました。
当時は「贅沢は敵だ」とされ、華やかなファッションは歌手でも敬遠されモンペを履いて歌っている人も多くいましたが、「せめてステージのときくらい、夢をもっていただきたい」との信念から淡谷さんは絶対モンペは履きませんでした。
戦後の1948年に発売した『嘆きのブルース』『君忘れじのブルース』が立て続けにヒット。
1953年には第4回NHK紅白歌合戦に初出場し、紅組のトリを務めました。
1971年には第13回日本レコード大賞特別賞、1972年には紫綬褒章などを受賞しました。
ものまね王座の名物審査員として活躍
1980年代になると『ものまね王座決定戦』(フジテレビ)の名物審査員として出演。辛口批評から人気となりました。
番組では「ネタが下品」だと清水アキラさんを嫌い、ネタに笑うことなく、他の審査員が全員10点をつけても事実上の最低点である「8点」をつけ続けました。
1989年3月に清水さんが研ナオコさんの『夏をあきらめて』で淡谷さんを笑わせることに成功し、淡谷さんは10点をつけ、清水さんはついに100点を獲得。
淡谷さんは「真面目にやればできるじゃない」とコメントしました。
淡谷のり子の結婚歴や夫、子供
淡谷のり子さんの結婚歴は1度。
1931年、24歳の時に1歳年下で、ジャズピアニストの和田肇さんと結婚。
和田さんは東洋音楽学校(現・東京音楽大学)ピアノ科卒業後、ジャズ・ピアニストとして活躍。
淡谷さんの伴奏を務めたことがきっかけで結婚しましが、4年後の1935年に離婚。
離婚後は再婚をすることはなく、ずっと独身でした。
子供は娘が1人で、1938年に奈々子さんが誕生していますが、子供の父親は生涯公表しましせんでした。
淡谷のり子の晩年と死因
1992年、85歳の時には新曲『揺り椅子』を発表するなど精力的にコンサートやテレビ出演も続けましたが、1993年に脳梗塞を発症し入院。
軽度ではあったものの言語症や手足にも麻痺が残り、以降はメディアへの露出はなくなりました。
1996年には寝たきりとなり、2歳年下の妹が老老介護をロしていました。
1998年10月にはは故郷・青森県青森市の名誉市民に選ばれ、推戴式に車椅子姿で出席。
これが公の場での最後の姿になりました。
1999年9月22日、老衰のため東京都大田区の自宅で死去。92歳でした。
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