オロナミンCのCMに出演してたことでで知られる大村崑さん。
86歳から筋トレを始め、ライザップにも通っていす。
この記事では大村崑さんの学歴、経歴、生い立ちを紹介します。
大村崑の学歴
大村崑の小学校
大村崑さんの出身小学校は 神戸市立志里池小学校
兵庫県神戸市出身、弟1人、妹2人の4人兄弟。
本名は岡村 睦治(おかむら むつじ)。
父親は写真館、母親は電気店を経営しており家庭は裕福で、神戸随一の繁華街だった新開地近くで育ちました。
近所には芝居小屋や劇場があり、父親はそこに出演する女優さんによくご馳走していて、大村崑さんは劇団の人にかわいがられ、白粉(おしろい)を塗られて舞台に上がったこともあったといいます。
小学校は大開尋常小学校(現・神戸市立兵庫大開小学校)に入学しましたが、虚弱体質だったため養護学級に入れられたそうです。
9歳の時に父親が他界。
その後、跡取りのいなかった父方の伯父の養子になり引き取られ、すぐ下の弟は近所の人の養子とり、まだ乳飲み子だった妹は母親が育てることになり、一家離散。
やりきれない気持ちだったといいます。
引き取られた後、神戸市立志里池小学校。
伯父も心斎橋で写真館を経営していて裕福でしたが、伯母はきつい人で、毎朝、「お母さんと呼びなさい」と言われ、母親は生みの母だけだと思ってたため呼ばないと、平手で叩かれたそうです。
大村崑の中学校
大村崑さんの出身中学校、高校はは 神戸市立第一機械工業学校
現在の神戸市立科学技術高校。
兵庫県神戸市中央区脇浜町に男女共学の高校、現在の偏差値は47~57。
伯父の写真館を継ぐために同校に入りましたが、一時期は学校に行くのをやめて闇市で働いていたこともあったといいます。
2年生、14歳の時に終戦。
卒業後は、伯父の写真館でアシスタントをしていました。
大村崑の経歴
伯父の写真館を手伝っていましたが、漠然と芸能界えの憧れがありました。
芸能界に入るためには芸能人と知り合うの一番だと考え、三宮の「新世紀」という大きなキャバレーでボーイとして働き始め、司会者が引き抜かれたことから、自ら名乗り出て司会を務めると大好評。
ステージのゲストは雪村いづみさん、美空ひばりさん、美空ひばりさん、江利チエミさんなどで豪華でした。
20歳の頃に肺結核になり、右肺を切除。
医師に40歳までは生きられないだろうと宣告され、限られた命ならばと開き直り、亡くなった父親の好きだった喜劇の道に進むことを決意。
1953年にカリスマ司会者だった大久保怜さんに 弟子入り。
梅田の北野劇場の専属コメディアンを経て、ごく一時期に吉本興業所属。
吉本興業とはギャラの問題が生じ、すぐにマネジメント契約を終了。
黎明期のテレビに進出し、1958年にコメディドラマ『やりくりアパート』の学生役で人気を獲得しました。
1960年3月にシャンソン歌手だった、6歳年下の岡村瑤子さんと結婚。
岡村瑤子さんがテレビ番組のオーデションで、ディレクターを訪問した時に、大村崑さんたまたまそこにいたことで出会ったそうです。
子供は息子が2人います。
1665年からオロナミンCのCMに出演。
当時、34歳で、同時期から「ずれ落ちたロイド眼鏡姿』のオロナミンCを手にする大村崑さんのホーロー看板が街中に設置されました。
オロナミンCのCMは最初は断りましたが、それを遮って「やらせていただきます」と仕事を受けたのは妻の瑤子さんだったそうです。
同年には『日清ちびっこのどじまん』(フジテレビ)の2代目司会者にも抜擢。
1970年代半ば以降は、コメディーや司会業から俳優業にシフトし、コメンテーターとしても活躍しました。
大村崑の筋トレとライザップ
大村崑さんが筋トレに目覚めたのは86歳の時。
きっかけは妻の瑤子さんに
『一緒にライザップへ行かへん?』
と言われたことでした。
大村さんは即座に「いやや」と答えましたが、瑤子さんは「近所やし、きっと楽しいと思うよ、体も引きしまるやろうし」と食い下り、仕方なく行くだけは行くことにしたそうです。
入会は断るつもりでしたが、受付の女性が雰囲気がよく、大村さんよりも口が達者で、
『筋肉は死ぬまで鍛えられます』
『速く歩けるようになりますよ』
の言葉でライザップの入会を決意し、週2回、1回1時間程度の筋トレが始まりました。
最初はスクワットもできず、1時間のエクササイズが終わると疲労困憊でしたが、不思議と気分は爽快だったそうです。
3ヵ月後にはすっかり夫婦で筋トレにハマり、数回しか出来なかったスクワットも15回できるようになり、それを3セット繰り返せるようになり、2年後に30kgのバーベルを肩に背負ってスクワットができるようになったそうです。
筋肉痛の痛みも心地よく感じているといいます。
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