倉本聰の学歴・経歴・生い立ち〔大学 高校 中学校 小学校〕

学歴 倉本聰 その他

テレビドラマ「北の国から」や「やすらぎの郷」などで知られる脚本家の倉本聰さん。
1977年には富良野に移住しました。
この記事では倉本聰さんの学歴、経歴、生い立ちや、富良野に移住したきっかけ、結婚や妻などについて紹介しています。

倉本聰の経歴・プロフィール

倉本聰の経歴プロフィール

名前   倉本聰
生年月日 1934年12月31日
出身   東京都
血液型  O型

倉本聰の小学校

倉本聰さんの出身小学校は 豊島師範附属小学校

東京都渋谷区代々木生まれ。本名は 山谷 馨(やまや かおる)。
実家は祖父の代からの医学雑誌なの出版をしていた日新医学社を経営。
父親は同社の社長を務めた後、自ら自然科学系の出版社「日新書院」を創業した実業家の山谷太郎さん。三男二女の5人兄弟の次男。
父親、母親共に教育熱心でクリスチャンでした。

戦時中は山形県上山市や岡山県浅口郡金光町 (現・浅口市 )に疎開、
山形県は日本政府が実施した学童疎開で、都会育ちだった倉本さんはカルチャーショックを受け、東京に帰りたいと思い、仮病で使って数ヶ月で東京に戻ることに成功。
岡山県は一家での縁故疎開で、終戦は10歳の時に岡山県で迎えました。

通った豊島師範附属小学校は、現在の東京学芸大学附属小金井小学校。
東京都小金井市貫井北町にある国立小学校です。
戦後は自宅を進駐軍に接収され、父親の出版事業も傾き、借金に負われ性格は苦しくなったといいます。

倉本聰の中学校・高校 浪人中にシナリオを勉強

倉本聰さんの出身中学校・高校は 麻布中学校・麻布高校

東京都港区元麻布二丁目にある私立の男子校。
中学校の偏差値は72。完全中高一貫制のため高校の生徒募集はありません。
自由な校風で制服も明文化された校則もない学校です。

中学時代は演劇部に所属し、雑用を手伝い、エキストラとして芝居に出演していました。
言論部にも所属し、中学2年生の時に学童疎開のことを小説に書くと、学内誌「言論」が載せてもらえさらに書くことに興味を持ったといいます。

高校2年生の時に父親が52歳の若さで他界。
父親は東京帝大工学部、兄も東大工学部で、母親にも「東大を受けなさい」と言われていたことから東京大学を受験しましたが、高校時代は映画に熱中し映画館通いを続けていたこともあり、大学受験に失敗。
浪人生活を送り、高校時代に映画館に通っていたことから脚本に興味を持ち、浪人時代にシナリオの勉強を始め、喫茶店や電車の中など人の会話を盗み聴きし、ノートに書くことが勉強のスタートで、小遣いをやるくりして映画シナリオに日本語訳をつけた冊子を購入して脚本を学びました。

倉本聰の大学 大学在学中に脚本家デビュー

倉本聰さんの出身大学は 東京大学 文学部 (偏差値72)

東京都文京区本郷七丁目に本部がある国立大学。
大学には2年の浪人生活を経て合格しました、
大学入学後はアルバイトをしながら劇団『仲間』の文芸部に所属。脚本を次々と書きました。

大学2年生の時にラジオドラマ「鹿火」(青森放送)が流れ脚本家デビュー。
大学4年生の時に新日本放送(現・毎日放送)から依頼され15話のラジオドラマの脚本を書き、この時にに初めて倉本聰のペンネームを使いました。

1959年に大学を卒業後はニッポン放送に入社。
第一志望はフジテレビでしたが、倉本さんの年はフジテレビ、ニッポン放送、文化放送の3局が合同で新卒の採用を行っていて、気がつくとニッポン放送に回されていたそうです。

倉本聰の学歴

倉本聰の学歴

小学校  豊島師範附属小学校
中学校  麻布中学校
高校   麻布高校
大学   東京大学

ニッポン放送を退職したのは「倉本聰に会って来い」と言われたことがきっかけ

ニッポン放送に入社後はディレクター・プロデューサーとして勤務しながら、会社に内緒で「倉本聰」の名前で脚本家としても活動し、1959年に『パパ起きて頂だい』(日本テレビ)でテレビドラマ脚本デビュー。
会社から帰宅してから脚本を書き、睡眠時間2時間で出社する毎日を送り、1963年にニッポン放送を退社。

退社したのは上司に「最近倉本って若手が出てきたから一度会って来い」と言われたのがきっかけの1つだったといいます。
その後はフリーの脚本家として活動。日本テレビのドラマを中心に執筆し、1974年には大河ドラマ『勝海舟』を担当。
1975年には『前略おふくろ様』(日本テレビ)がヒットしました。

富良野移住のきっかけ

北海道に滞在した際に北海道の人達の町のおおらかさが気に入り、移住に適した土地を探し出会ったの「富良野」で、1977年に移住しました。
1981年に富良野を舞台にした家族ドラマ『北の国から』(フジテレビ)が話題を呼び、その後も1984年の『昨日、悲別で』(日本テレビ)、2005年の『優しい時間』(フジテレビ)など北海道を舞台にした作品を書いています。
1984年からは富良野市布礼別に若手の俳優と脚本家を養成するための「富良野塾」を創設。
26年にわたって主宰ました。
2017年には自身でテレビ局に働きかけ、テレビ朝日の新設して昼の帯ドラマ枠で、テレビ全盛期を担った俳優・作家・ミュージシャンなどが入居する老人ホームを舞台に現在のテレビの在り方に対する批判も盛り込んだ『やすらぎの郷』を執筆しました。

結婚や妻、子供

倉本聰さんは1962年、27歳の時に舞台女優の平木久美子さんと結婚。
妻の久美子さんと出会ったのは大学時代に所属していた劇団「仲間」で倉本さんが入ったのと同時期に久美子さんも入ってきたといいます。
倉本さんに子供はいません。

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