ドラマ『裸の大将放浪記』で山下清を演じたことで知られる俳優の芦屋雁之助さん
この記事では芦屋雁之助さんの学歴、経歴、生い立ちや、結婚歴、子供などについて紹介しています。
Contents
芦屋雁之助の経歴・プロフィール
芦屋雁之助の小学校
芦屋雁之助さんの出身小学校は 不明
京都府京都市生まれ。本名は西部 清(にしべ きよし)。6人兄弟の4番目。
実家は友禅染めの工場を経営していました。
しかし、芸事が好きだった父親は「若松家」の亭号を名乗り漫才師になり、一座を組んで巡業を始めたといいます。
芦屋雁之助の中学校
芦屋雁之助さんの出身中学校は 京都市立朱雀中学校
京都府京都市中京区壬生中川町にある公立中学校。
中学時代には芸人となった父親について芸をこなし、一時期は漫才師の「五條家弁慶」に弟子入りし、前座で手品をした師匠と漫才や芝居の舞台に立っていました。
中学卒業後は高校に進学していません。
芦屋雁之助の学歴
芸人デビュー
18歳の時に弟の秀郎(芦屋小雁)と共に、当時、人気漫才師だった「芦の家雁玉・林田十郎」に弟子入り。
「雁之助」と「小雁」の名前をもらいましたが、亭号「芦の家」を勝手に「芦屋」に変えたため破門。
京都、大阪を中心に漫才師として活躍し、「若手漫才の有望株」と言われましたが、4年ほど経った時に、演劇評論家の武智鉄二さんの勧めで漫才を辞めコントを開始。
その後は兄弟で喜劇役者に転身しました。
喜劇俳優として活躍
1959年、28歳の時に大村崑さんらと『劇団・笑いの王国』に加入。
劇団では看板俳優の1人として活躍し、同年3月から放送開始されたコメディー番組『番頭はんと丁稚どん』(毎日放送)に出演。
強面で下の者には厳しいですが、裏では大阪のおばちゃん口調になる薬屋の番頭を演じ、「わてが雁之助だんねん」などのギャグで人気となりました。
代表作は「裸の大将放浪記」の山下清役
1964年には弟の小雁さんと共に劇団「喜劇座」を旗揚げ。
座付き作家だった藤本義一さんに風貌が「画家の山下清」に似てると指摘し、藤本さんが舞台劇『裸の大将放浪記』を書き上げ公演すると評判になりました。
1969年に劇団解散後は関西から東京に活動拠点を移し喜劇だけでなく、演技派俳優としても活動。
1976年には人気時代劇「必殺シリーズ」の『必殺からくり人』にレギュラー出演。
1979年、森光子さんと共演した舞台『おもろい女』で芸術祭大賞を受賞。
1980年に『裸の大将放浪記』(フジテレビ)で舞台で演じ評判になった山下清役を再び演じ、当たり役となり、1997年まで制作されました。
1984年には2月1日発売したシングル『娘よ』が累計売り上げ150万枚を記録し、、同年末の『第35回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たしました。
結婚歴や妻、子供
芦屋雁之助さんの結婚歴は2度。
最初の妻は大阪のOSミュージックホールのダンサーだった夏丘梨枝さん。
1960年に結婚し、息子が3人誕生しましたが、その後、離婚。
三男は1967年頃に誕生し、三男が物心がついたころには離婚してたいといいます。
再婚した妻は、約20歳年下の梅田コマ劇場のダンサーだった大島久里子(西部久里子)さん。
子供は息子が3人と娘が1人の4人のようです。
『雁之助の三男・塩の屋きくお 芦屋雁三郎に改名』
三男は俳優の芦屋雁三郎さん。
娘は再婚相手との子供で1976年8月30日に誕生。西部里菜の名前で女優、歌手をしていました。
8歳の時、父親のが主演のドラマ『裸の大将』に出演し、1987年から1988年まで、ミュージカル『アニー』で主演のアニー役を演じました。
1997年には歌手に転向し2000年3月までに5枚のシングルを発売しています。
晩年や死因
糖尿病を患い1994年頃からは、病状が悪化し静養しながら、舞台やテレビ出演を続けました。
大食漢で知られ多い時には1日の5食を食事を摂っていたといい、糖尿病はそれが原因で患ったといわれていますが、本人は晩年に、
『山下清の役作りのために体重を落とすわけにもいかなかった』
と話しています。
2004年4月7日、鬱血性心不全のため京都市市内の病院で死去。72歳でした。
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