秋元康の学歴・経歴・生い立ち〔大学 高校 中学校 小学校〕

学歴 秋元康 その他

とんねるずのブレーン、プロデューサーとして知られた秋元康さん。
1985からは「おニャン子クラブ」作詞を手掛け、2005年からはAKB48グループの総合プロデューサーとして作詞を担当しました。
この記事では秋元康さんの学歴、経歴、生い立ちについて紹介しています。

秋元康の学歴

秋元康の学歴

小学校  保谷市立中原小学校
中学校  保谷市立ひばりが丘中学校
高校   中央大学附属高校
大学   中央大学

秋元康の小学校

秋元康さんの出身小学校は 保谷市立中原小学校(現在は西東京市立)

1958年5月2日生まれ、東京都目黒区大橋出身。父親は会社員、9歳年下の弟がいる長男。
幼少期に小児喘息を患い、小学1年生の頃に「空気がいいところ」ということで、保谷市(現在の西東京市)に引っ越しました。
小学生の体が弱かったこともあり、外で遊ぶより勉強する子供で、当時は将来は東京大学に入り大蔵省(現・財務省)の官僚になりたいと思っていました。

中学受験をするために塾にも通い、開成中学校を受検しましたが不合格。
通っていた塾では模試の成績も良く、先生にも「絶対受かる」と言われていたのに落ちて、すごくショックだったそうです。

秋元康の中学校

秋元康さんの出身中学校は 保谷市立ひばりが丘中学校(現在は西東京市立)

中学受験に失敗し、地元の公立中学校に入学してからは、「最終的に東大に行けばいい」と思い、あまり勉強はしなかったといいます。
中学時代には優等生グループとも不良グループをも仲が良かったそうです。

秋元康の高校

秋元康さんの出身高校は 中央大学附属高校 (偏差値71)

東京都小金井市貫井北町三丁目にある男女共学jの私立高校。
男女共学になったのは2001年からで、それまでは男子校で私服でした。
出身者にはアナウンサーの小倉智昭さん、シンガーソングライターのナオト・インティライミさんなどがいます。

同高校には「大学の附属高校」だからという親の勧めで進学。
当時は男子校だったで、高校入学後は友達と遊んでばかりだったといいます。

高校2年生の時に東大を目指して、本格的に受験勉強を始め、勉強の合間に聞いていたラジオの「ラジオドラマ」を自分でも書けるような気がして、せんだみつおさんをを主人公とした『平家物語』のパロディを書いて原稿j送ると、ニッポン放送制作部副部長だった亀渕昭信さんと放送作家の奥山侊伸さんの目に留まり、「遊びにおいて」と誘われてニッポン放送に出入りするようになりって、奥山さんに弟子入り。

高校2年生で放送作家デビューし、高校在学中に奥山さんの所属していた大橋巨泉事務所にも所属しました。

秋元康の大学

秋元康さんの出身大学は 中央大学 文学部(偏差値65)

東京都八王子市東中野に本部がある私立大学。
内部進学で入学で入学しました。
大学時代にに放送作家の仕事を始め、当初はアルバイトを考えていましたが、大学のキャンパスでもテレビやラジオの原稿を書くようになり、大学は5~6年在籍した後に中退しました。

秋元康の経歴 おニャン子クラブのブレーン、作詞を担当

秋元康のプロフィール

名前   秋元康
生年月日 1958年5月2日
出身   東京都目黒区大橋
身長   167cm
血液型  O型
所属   株式会社秋元康事務所

大学を中退した頃には。サラリーマンの4倍近い収入がりましたが、経済観念を揺るがすようなことはなかったといいます。

『自分の稼ぎはあぶく銭だと思っていましたし、親父の稼ぐ100万と僕の稼ぐ100万は違うと思っていましたから。』

放送作歌としての収入は、パチンコ屋で玉がすごく出たようなもので、玉が出なくなったやめようを思っていたといいます。

ニッポン放送の亀渕昭信さんからニッポン放送の子会社だったパシフィック音楽出版(後のフジパシフィックミュージック)の朝妻一郎さんを紹介され、作詞も手がけるようになり、1981年に、フジテレビ系で放送されたアニメ『とんでも戦士ムテキング』の挿入歌「タコローダンシング」で作詞家デビュー。
とんねるず出会ったのは1982年頃でした。

先輩の放送作家が笑いを入れようと。それで「今『お笑いスター誕生』で勝ち抜いている“とんねるず”っていうのが面白そうだから会ってこい」と言われて、日本テレビのリハーサル室にとんねるずの2人を呼んでネタを見せてもらったら、すごく面白かったんですね。

一緒に飲みに行ったり遊んだりするようになり、1983年に『オールナイトフジ』が始まると秋元さんは放送作家として入り、とんねるずもレギュラー出演。

『オールナイトフジ』での「女子高生スペシャル」が盛りあがったことがきっかけで、夕方の『夕やけニャンニャン』の放送が始りました。

1985年に作詞家として、小泉今日子さんの『なんてったってアイドル』、とんねるずの『雨の西麻布』などをヒットさせ、同年に、女性アイドルグループ・おニャン子クラブの楽曲を手掛け、全楽曲の作詞を担当。
1987年には長者番付のその他の部門で16位となり、納税額は1億61万円でした。
1989年には美空ひばりさんの遺作となった『川の流れのように』の作詞を担当しました。
1986年から『とんねるずのみなさんのおかげです。』、1991年から『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』の番組が始まると、監修、構成を務めました。

2005年からは東京・秋葉原で女性アイドルグループAKB48を立ち上げ、総合プロデューサーに就任。
手掛けた楽曲は、2013年2月27日付までの通算で計506作品、約6859万1000枚に達し、それまで1位だった阿久悠の約6831万9000枚を抜き、作詞家として歴代1位を獲得。
そのうちAKB48が約1998万7000枚で約3割を占めていいます。

秋元康の結婚歴や妻、子供

秋元康さんは1988年5月におニャン子クラブのメンバーだった、高井麻巳子真美子さんと結婚。
秋元さんは30歳、8歳年下の高井さんは21歳でした。
高井さんからの猛アプローチで結婚したといい、結婚と同時に夫婦で渡米しニューヨークに1年半ほど滞在し、美空ひばりさんの『川の流れのように』はニューヨークのカフェで書いたそうです。

子供は娘が1人で、結婚13年目の2001年3月に誕生しています。

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