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由紀さおりの学歴・経歴・生い立ち〔大学 高校 中学校 小学校〕

学歴 由紀さおり

ヒット曲『夜明けにスキャット』で知られる歌手の由紀さおりさん。 2011年に発売したアルバムは全米iTunesジャズ・チャートで1位となり、カナダでも1位を獲得しました。、 この記事では由紀さおりさんの学歴、経歴、生い立ち、結婚歴について紹介しています。

由紀さおりの学歴

由紀さおりの学歴

小学校  横浜市立豊岡小学校
中学校  洗足学園第一中学校
高校   洗足学園第一高校
大学   洗足学園短期大学

由紀さおりの小学校

由紀さおりさんの出身小学校は 横浜市立豊岡小学校

群馬県桐生市生まれ。本名は安田章子(やすだ あきこ)。

戦後、飛行機工場の工場長だった父親が工場閉鎖などの戦後処理を終えた後、3歳の時に神奈川県横浜市鶴見区に移りました。
兄と姉がいて、5歳年上の姉は歌手の安田祥子さん。

住んでいた家は長屋で、裏口を出ると共同の井戸があったそうです。

姉がひばり児童合唱団に入り、まだ4歳でひとりで留守番できなかった由紀さんも毎回一緒に連れて行かれ見学していると、『あなたも入ったら?』スタッフに声をかけられ、年少クラスに入団。
このことがきっかけで、少女時代から姉と一緒に童謡歌手として活動。

小学2年生の時には父親が2階建ての家を建てて川崎市に引っ越しました。

由紀さおりの中学校・高校

由紀さおりさんの出身中学校、高校は 洗足学園第一中学校・高校

東京都目黒区洗足にあった私立の女子校で、2008年に閉校になっています。
偏差値は43~48ほどだったようです。

譜面を見てすぐに歌える能力を買われ、中学3年生の頃にはCM曲の仕事が入ってくるようになりました。

CMは30秒、15秒、5秒があり、5秒のCMは歌うの3.5秒ほどで、叫ぶようにはっきりと歌わなければならず、それまでの童謡とは全く違ったといいます。

由紀さんは要望に応えようしていましたが、姉は『もっとはっきり歌ってほしい』と言われると、『私はそういう歌い方はできません』とはっきりと言ってしまうタイプ、『仕事がこなくなる』と思う由紀さんとは正反対で、当時は性格の違いからよくケンカをしていたそうです。

高校に入学後は童謡歌手を続けるか、歌謡曲を歌える歌手になるか悩み、高校在学中に本名の安田章子の名義で『ヒッチハイク娘』をリリースして歌謡曲の歌手としてデビュー。

その後も、3曲発売しましたが売れませんでした

由紀さおりの大学

由紀さおりさんの出身大学は 洗足学園短期大学 英文科(偏差値43)

神奈川県川崎市高津区久本にある私立大学で、2010年に改称され、現在は洗足こども短期大学
出身者にはシンガーソングライターの渡辺真知子さんなどがいます。

短大2年生の時に再デビュがー決まり、本名の安田章子から芸名の由紀さおりに改名。

『由紀さおり』の芸名は母親が着物好きで、結城紬が由来だといいます。

由紀さおりの経歴

由紀さおりのプロフィール

名前   由紀さおり
生年月日 1946年11月13日
出身   群馬県桐生市
身長   156cm
血液型  A型
所属   田辺エージェンシー

過去の失敗から由紀さんは再デビューに消極的でしたが、1969年3月にリリースした再デビュー曲『夜明けのスキャット』は深夜のラジオ番組で流されたことがきっかけで大ヒット。

オリコチャート1位を獲得し、累計150万枚の売り上げを記録。

年末には第20回NHK紅白歌合戦に初出場を果たし、以降10年連続で出場しました。

翌年1970年7月に発売した『手紙』もオリコンチャート6週連続1位となる大ヒットとなりました。

ドリフの番組で活躍

バラエティ番組でも活躍し、特に『8時だョ!全員集合』(TBS)でコメディーの才能が開花、 『ドリフ大爆笑』(フジテレビ)ではコントのオチを任されるなど準レギュラーに近い立場で出演しました。

ゲストとしての出演回数は最多でした。

1995年からはNHKのバラエティ番組コメディーお江戸でござる』や『道中でござる』にも準レギュラー出演し、伊東四朗さんと息の合った掛け合いを見せ、2006年まで出演しました。

1980年代にはテレビ司会者や女優として活動し、1983年公開の映画『家族ゲーム』では、第7回日本アカデミー賞・助演女優賞を受賞しました。

アルバムが世界でヒット

2011年10月にアメリカのジャズオーケストラのピンク・マルティーニとのコラボでレコーディングしたしたアルバム『1969』は世界22か国で発売されました。

全12曲中、フランス語で歌った『さらば夏の日』以外は日本語の曲でしたが、アメリカやカナダのチャートで1位を記録。

ギリシャのアルバム・チャートでは4位、シンガポールでは18位になっています。

このアルバムは ピンク・マルティーニのリーダーが、米オレゴン州ポートランドの地元中古レコード店で、たまたま「夜明けのスキャット」のレコードが目に留まり、由紀さんの透明感ある歌声に魅了され、2007年に自身のバンドのアルバムで由紀さんの曲『タ・ヤ・タン』を日本語でカバー。

2009年に由紀さんのスタッフがユーチューブに投稿されたライブの動画を見て、コンタクトを取り、2010年3月、ピンク・マルティーニの来日公演で初共演。

アルバムは由紀さんが、日本のヒット曲集のアレンジを依頼したところ、世界のヒット曲も含めるよう提案され実現したといいます。

2011年10月にはロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで行われたピンク・マルティーニのコンサートに由紀さんが招かれました。

由紀さおりの結婚歴

由紀さおりさんの結婚歴は2回。

最初の結婚は1969年、22歳の時。夫は10歳年上の音楽ディレクター・大森昭男さん。

CMで知られる石川さゆりさんの『ウイスキーが、お好きでしょ』のなどのプロデュースをした人物です。

2人の出会いは由紀さんが中学生の時で、プロポーズは高校3年生の時だといい、由紀さんの父親の反対で、結婚は短大卒業後まで待ちました。

1976年頃から別居状態になったといい、結婚14年目の1983年に離婚。

『結婚して5年目に、“子供が欲しい”と言われました。でも、今頑張らないと生き残れないと思った私は、“もう少し待って”と。それが修復できない亀裂となって、結局、私は家を出てしまいました』

2人に子供はいませんでした。

離婚後、37歳の時に子宮筋腫を患い、41歳の時に子宮全摘出手術を受けています。

2度目の結婚は事実婚でした。

子宮全摘出手術を受けた後にアメリカ在住の実業家・柴冨哲也さんと出会い交際に発展。

由紀さんは再婚を考えアメリカに行く決断をしましたが、母親に猛反対され断念。

1999年の母親の死後、2000年頃から事実婚状態になったといいます。

ただ、同居はしておらず、柴冨哲也さんが日本とアメリカを行き来する生活でした。

2006年に破局し離婚しています。

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