東京都出身の女優で映画、ドラマ、、舞台、CMで幅広く活躍した山本陽子さん。
車好きでも知られ、日本で初めてポルシェに乗った女性とも言われました。
この記事では山本陽子さんの学歴、経歴、生い立ちや、女優デビューのきっかけ、結婚歴などについて紹介しています。
Contents
山本陽子の経歴・プロフィール
山本陽子の小学校・中学校 中学時代は演劇部に所属
山本陽子さんの出身小学校・中学校は 国分寺市内の学校
東京都東京市(現・中野区)出身。兄、姉、弟がいる4人兄弟の3番目(全員年子)。
両親は共に東京出身の江戸っ子で、父親は証券取引所に勤務していました。
父親はカメラが好きな温和な人で、母親は強気な人だったといいます。
両親は「これはいけない」などうるさく言うことはなく、叱られた記憶もないといい、自由奔放にのびのびを育てられたといいます。
戦時中はであきる野市で疎開生活を送り、3歳で終戦を迎えた後は国分寺市に移りました。
疎開先で放し飼いなっていたニワトリに追いかけられた経験から、鶏肉な全く食べられなったといいます。
小学校、中学校は国分寺市内の学校のようですが校名は不明。
小学校は国分寺第二小学校との情報もありました。
中学時代は演劇部に所属していましたが、無口で自己主張はしない、どこにいるかわからないほどのおとなしい子供だったといいます。
山本陽子の高校 卒業後は証券会社に就職
山本陽子さんの出身高校は 國學院高校 (偏差値66)
東京都渋谷区神宮前2丁目にある男女共学の私立高校。
同高校に卒業生にはシンガーソングライターのさだまさしさん、お笑い芸人のふかわりょうさんなどがいます。
高校時代は兄と姉の「精神統一にいい」との勧めで、当時は学校になかった女子修道部を先生にお願いして創設。部員は3人からのスタートだったといいます。
『私は中学生くらいまで、ほとんどしゃべらず自己主張をしない、それはそれはおとなしい子どもでした。でも高校に入ったら男子が多かったせいか心がざわめきまして(笑)、入学早々、隣のクラスに気になる男の子ができちゃったんです。』
当時の高校は男女交際はもちろん、並んであるくのも禁止で登下校時は先生が見張っていたといい、山本さんは好きだった男子を駅でさりげなく待ち伏せして、2mくらい後ろをついて学校に通っていたそうです。
この頃から積極性が出てきたといい。最終的には男子の自宅を探して直撃したといい、男子は不在でしたが母親が家に上げてくれて、何故かラーメンを作ってくれたそうです。
しかし、その男子とは交際をすることありませんでした。
高校卒業後は大学進学の道もありましたが、山も山本さんは進学するつもりはなかったそうです。
当時は女性の社会進出が始まっていて、山本さんは「いい会社に入って結婚したい」という思いが強く、進学ではなく就職を選び、証券会社の野村証券に就職。
営業部に配属され、主に投資信託を担当。初任給は1万500円だったいいます。
証券会社には3年間勤務していました。
山本陽子の学歴
女優デビューしたきっかけ
山本さんはもともとは女優を目指していたわけではありませんでした。
証券会社時代の1963年にアルバイトの女の子とが山本さんに内緒で日活に応募書類を送ったところ合格。
面接の通知が来たことで山本さんははじめて知り、応募資格は14歳から19歳までで山本さんは21歳でしたが、面接に行ってみると最後まで残り、第7期日活ニューフェイスとして芸能界入り。
1963年に映画デビューしました。
テレビドラマで活躍
デビュー当時は吉永小百合さん、松原智恵子さん、和泉雅子さんの「日活三人娘」が大人気で、山本さんはその人気に押され、回ってくる役は喫茶店のお客さんなど端役ばかりでした。
証券会社時代よりも収入はよくなりましたが、時間は不規則で辞めようと考えたこともあったといいます。
デビュー翌年の1964年にテレビから声がかかり、ドラマデビューすると、日本的な美貌から人気を集め、清楚な役から悪役まで幅広く演じ。出演ドラマは軒並み高視聴率を記録。女優としての地位を獲得しました。
1971年に森光子さん主演の舞台「放浪記」で初舞台を踏み、1980年に「花埋み」で舞台初主演。
以降は、ドラマ、舞台、映画と幅広く活躍しました。
車好きで23歳時に運転シーンがあったため免許を取得後は、生涯愛車20台以上に乗り、20代後半には赤の「ポルシェ911S」を購入。
これは日本の納車第1号でした、
結婚歴や夫
山本陽子さんに結婚歴はなく生涯独身でした。
独身でしたが熱愛の報道は多く、1973年の『白い影』(TBS)で共演した田宮二郎さんとは不倫関係がささやかれ、1984年には21歳年下の俳優・沖田浩之さんとの交際が報じ入られるなど「恋多き女優」として知られました。
晩年や死因
山本さんは70歳の時に東京に家を引き払い、静岡県熱海市に移住。
仕事の時に熱海から東京に通っていました。
2024年2月20日、熱海市内の病院で急性心不全のため死去。81歳でした。
亡くなる数時間前までは元気は様子で甥と行動を共にしていたといい、帰宅直後に急変したと発表されています。
晩年も積極的に仕事をこなしており、2024年2月2日放送の『徹子の部屋』(テレビ朝日)には高橋英樹さんと共に出演。これが生前最後のテレビ出演でした。
同年4月には舞台出演の予定も入っていたといいます。