山本富士子の学歴・経歴・生い立ち〔大学 高校 中学校 小学校〕第1回ミス日本を受賞

学歴 山本富士子 俳優

第1回ミス日本に選出され、スカウトされて女優になった山本富士子さん。
映画出演の道を閉ざされ後は、テレビで活躍し、その後は舞台一筋でした。
この記事ではさん山本富士子の学歴、経歴、生い立ちについて紹介しています。

山本富士子の経歴・プロフィール

山本富士子のプロフィール

名前   山本富士子
生年月日 山本富士子
出身   1931年12月11日
身長   159cm
血液型  AB型
所属   大阪府大阪市

山本富士子の小学校

山本富士子さんの出身小学校は 不明

大阪市西区立売堀生まれ。1男2女の次女として誕生。
父親は大きな鉄工所を営み、母親は大阪・船場の綿花問屋「山重」を営む名家の長女でした。
家庭は裕福で、3階建ての洋館で生活していましたが、9歳の時に両親は離婚。
姉と共に母親に引き取られ、母親の実家で暮らしました。
母親はしつけに厳しく、幼少期から掃除や料理ななどの家事を教え込まれ、ピアノ、長唄、日本舞踊を習っていたといいます。

山本富士子の中学校 GHQが自宅を接収

山本富士子さんの出身中学校は 旧制大阪府立大津高女

大阪府泉大津市北豊中町1丁目に公立の旧制高等女学校。
旧制女学校は3年の「下等」と2年の「上等」の2等制で計5年です。
1872年に国立の女学校として開校され、1948年に学制改革で男女共学の高校になり、大阪府立大津高校に改称されました。
現在の偏差値は44。出身者にはお笑い芸人の大平シローさんなどがいます。

入学した時は戦時中だったたため、山本さんも勤労動員に狩り出されましたが、工場に行く時もクラスのみんながモンペを履いている中、山本さんは麻地のスラックスを履くなどオシャレな学生だったそうです。
在学中に終戦を向かえると、GHQが自宅を接収。
家財道具も着物の全て没収され、二度と戻ってくることはなかったといいます。
その後は京都に移り学校も転校しました。

山本富士子の高校 美人で有名

山本富士子さんの出身高校は 京都府立第一高等女学校

京都府京都市上京区寺町通荒神口下ル松蔭町にある公立学校で、1948年4月に学制改革で京都府立鴨沂高校に改称され、男女共学になりました。
現在の偏差値は50。
出身者には俳優の森光子さん、歌手の沢田研二さん、お笑いコンビ・相席スタートの山添寛さんなどがいます。

山本さんは高校3年生の時に転入し、1949年に卒業しました。
高校時代には学校で禁止されていたパーマをかけたり、ダンスのレッスンを受けるなど、戦後の学生生活を楽しんでいたといいます。
美貌も当時から有名でクラスメートには「胸の痛くなるような美人」と言われていたといいます。

山本富士子の学歴

山本富士子の学歴

小学校  不明
中学校  旧制大阪府立大津高女
高校   旧制京都府立第一高女
大学   進学していません

第1回ミス日本を獲得

1949年に高校卒業後は日本銀行の就職試験をうけるも不採用でした。
父親の友人だった京都市役所の広報課だった人物の勧められ、アメリカからの支援物資の答礼使節としての大任であると聞き、その趣旨に感動して、1950年に開催された第一回ミス日本に出場。
約700人の応募者の中から満場一致でミス日本を受賞しました。

1951年にはミス日本として公式訪米し、ニューヨークのヤンキー・スタジアムでマリリン・モンローさんとメジャーリーグ選手のジョー・ディマジオ選手に会っています。

女優デビュー

ミス日本を受賞後、映画界からスカウトされましたが、当初は女優になる意志はありませんでした。
しかし、スカウトは途切れず、姉の「これからの女性は仕事を持つことよ」との言葉に背中を押され女優になることを決意。
ミス日本受賞から3年後の1953年に、映画制作会社「大映」に女優として入社しました。
同年、『近世名勝負物語 花の講道館』で女優デビュー。
1956年の『夜の河』が大ヒットし、大映の看板女優として活躍。
1958年には主演映画『白鷺』、『彼岸花』の演技で、第9回ブルーリボン賞・主演女優賞を受賞しました。

映画会社が一方的に解雇

1963年1月の大映との契約更新の際に、前年と同じ条件の「年に大映2本、他社2本出演」の契約を求めましたが受け入れられなかったため、1月の契約切れを待って、山本さんはフリーを主張。
当時の社長・永田雅一さんは激怒し、山本さんを一方的に解雇し、「五社協定」を使って他社や独立プロの映画や舞台からも締め出すよう工作しました。

映画出演の道を閉ざされた山本さんは、テレビ界に活路を見言い出しドラマに主演。
解雇された1963年以降、「五社協定」がなくなっても映画には一度も出演していません。
その後は舞台に新境地を開き、1980年以降は舞台一筋で活動しました。

結婚や夫、子供

山本富士子さんは1962年4月、31歳の時に、6歳年上で作曲家でギタリストの山本丈晴さんと結婚。
山本丈晴さんの出生名は古屋武治でしたが、作曲の師匠だった古賀政男さんの養子になり古賀姓になった後、山本富士子さんの婿養子になり、山本姓になりました。
山本富士子さんがレコードの録音のために古賀政男さん宅を訪れたことがきかっけで出会い、結婚に至ったといいます。
山本丈晴さんは2011年9月7日、肺炎のために86歳で亡くなっています。
子供は息子が1人で、1968年に誕生しました、

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