柳生博の学歴・経歴・生い立ち〔大学 高校 中学校 小学校〕

学歴 柳生博 俳優

クイズ番組「100万円クイズハンター」の司会を務め「ハンターチャンス!!」の掛け声で知られる俳優の柳生博さん。

40歳から田舎暮らしを始め、八ヶ岳で八ヶ岳倶楽部も手掛けていました。

この記事では柳生博さんの学歴、経歴、生い立ちを紹介します。

柳生博の学歴

柳生博の学歴

小学校  不明
中学校  不明
高校   土浦第一高校
大学   東京商船大学

柳生博の小学校、中学校時代

柳生博さんの出身小学校、中学校は 不明

茨城県稲敷郡舟島村(現・阿見町)出身。

柳生新陰流で知られる柳生宗厳(柳生氏)の末裔にあたる家系だといいます。

実家

は地主農家、4人兄弟の次男。 厳格な祖父に農家の仕事を叩きこなれたといいます。

柳生家には代々伝わる「13歳になったら、1ヶ月旅をさせよ」との家訓があり、柳生博さんが中学2年生の時に選んだ旅先が山梨県と長野県いまたがる八ヶ岳でした。

柳生博の高校時代

柳生博さんの出身高校は 土浦第一高校(偏差値72)

茨城県土浦市真鍋にある男女共学の県立高校。

茨城県内ではトップ3に入る進学校です。

出身者にはシンガーソングライターの小室みつ子さんなどがいます。

高校は自転車通学、高校では数学が得意なもの静か少年でしたが、よく学校を抜け出して映画館に通っていたそうです。

柳生博の大学時

柳生博さんの出身大学は 東京商船大学(偏差値58)

東京商船大学は現在の東京海洋大学。

東京都港区港南にある国立大学です。

船長をなりたくて進学しましたが、視力の低下と体調を崩したことにより中退。

船長の夢を断念しました。

柳生博の経歴

柳生博のプロフィール

名前   柳生博
生年月日 1937年1月7日
没年月日 2022年4月16日(85歳没)
出身   茨城県稲敷郡舟島村(現・阿見町)
身長   175cm
血液型  O型
所属   竹内事務所

東京商船大学中退後、1960年、23歳の時ジェームズ・ディーンに憧れていた柳生博さんは、俳優を目指し劇団俳優座の養成所に入所。

翌年の「あれが港の灯だ」で映画デビュー。

初めての撮影現場では極度の緊張でNG連発たったそうです。

同年に「特別機動捜査隊」(テレビ朝日)でドラマデビューしましたが、その後、10年は売れることはなく、地下鉄工事などのアルバイトで食いつないでいました。

そんななか、1966年に3歳年下の女優・二階堂有希子さんと結婚。

1968年長男の真吾さん、1972年に次男の宗助さん誕生。

長男は陶芸家でしたが、2015年の47歳で咽頭がんで亡くなっています。

1977年4月からのドラマ「いちばん星」(NHK)で野口雨情を演じたことで全国区の知名度になり、1981年8月から「100万円クイズハンター」の司会を務め、「ハンターチャンス」の決め台詞でも有名になりました。

当時、44歳でした。

その後も俳優だけでなく、ナレーションやクイズ番組「平成教育委員会」(フジテレビ)の回答者として出演するなどバラエティ番組でも活躍しました。

八ヶ岳に移住

1976年に山梨県北巨摩郡大泉村(現・北杜市大泉町)に居を構えました。

俳優、司会者、ナレーションと多忙な日々を送り、で自分の時間や家族と過ごす時間を失い、徐々に自身のバランスを崩していったことに危機感を感じ、中学の夏休みに訪れて影響を受けた八ヶ岳南麓に家を建てたといます。

東京で仕事続けながら、休みの日には八ヶ岳に通い、森作りに没頭。

森は木漏れ陽が溢れ風が渡っていく美しい森となり、1989年にパブリックスペースとして、ギャラリー・レストラン「八ヶ岳倶楽部」を開設しました。

柳生博の晩年

2000年頃kら俳優活動を減らし、全国各地での講演会やバラエティー番組などの出演が中心となっていましたが、2019年に「やすらぎの刻~道」(テレビ朝日)で20年ぶりに連続ドラマに出演。

以降は八ヶ岳で余生を過ごしました。

2022年2月中旬以降に体調を崩し、2022年4月16日に老衰のため85歳で亡くなりました。

亡くなる2日前まで赤ワインを嗜んだといいます。

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