八千草薫の学歴・経歴・生い立ち〔大学 高校 中学校 小学校〕

学歴 八千草薫 俳優

宝塚出身で長く映画、ドラマの第一線で活躍した女優の八千草薫さん。
この記事では八千草薫さんの学歴、経歴、生い立ちや、女優になったきっかけ、結婚や夫について紹介しています。

八千草薫の経歴・プロフィール

八千草薫のプロフィール

名前   八千草薫
生年月日 1931年1月6日
没年月日 2019年10月24日(88歳没)
出身   大阪府
身長   154cm
血液型  O型
所属   柊企画

八千草薫の小学校 読書が女優のきっかけ

八千草薫さんの出身小学校は 大阪市立聖和尋常小学校

大阪府大阪市出生まれ。兄弟はおらず一人っ子。
2歳の時に父親は結核で他界。
その後は親元を離れ、大阪市内の親戚の家に預けられて育ちました。
母親は八千草さんを預けて働き、1週間に数回愛に来てくれていたといいます。
幼少期は人見知りで、お客さんが来ると隠れて出てこなかったそうです。

小学校は大阪市立聖和尋常小学校に入学。
大阪市天王寺区寺田町1丁目にある、現在の大阪市立聖和小学校です。
小学生の時も人見知りは変わらず、親戚が集まって食事に行った時も、他のいとこたちは何を頼むか話していましたが、八千草さんはひとり黙っていて「何を食べたいの?」と聞かれ「なんでもいい」と答えると、祖母に「それは子供の返事じゃない。子供はなんでも好きなことを言いなさい」と叱られたといいます。

病弱で小学2年生になった頃に病気のため、兵庫県の六甲に住む祖父母の家に3年か預けられ、学校も転校しました。
病気のためしばらくは学校に通えず、外でも遊べなかったため、家にあった本を読むようになり、これがきっかけで物語や空想の世界に夢中なったといいます。
その後も祖父母が買ってくれた児童文学全集から大人向けの雑誌まで、片っ端から読み漁り、空想の世界に浸っていたそうで、これが女優を目指すきっかけの1つになったそうです、

八千草薫の中学校・高校 宝塚音楽学校に合格

八千草薫さんの出身中学校・高校は 聖泉高等女学校

大阪府大阪市生野区勝山北1丁目にあるミッション系の旧制女学校で、現在のプール学院中学校・高校です。当時の女学校は5年制でした。
現在の中学校の偏差値は54、高校の偏差値は51~60。お嬢様学校として知られます。

当時は戦時中で自宅は空襲で焼け、「夢のある世界」に飢えていたことから華やかな世界に憧れを持ち、女学校在学中の4年生の時に宝塚音楽学校に合格。
高校は中退しました。

八千草薫の学歴

八千草薫の学歴

小学校    大阪市立聖和尋常小学校
中学校    聖泉高等女学校
高校     聖泉高等女学校
各種学校   宝塚音楽学校

宝塚歌劇団に入団

1947年に宝塚歌劇団入団。入学時の成績は50人中19位。
上下関係の厳しいことで知られる宝塚歌劇団ですが、八千草さんの時代はレッスンは厳しかったものの上級生が厳しいと思ったことはなかったといい、トップという制度もなかったそうです。

入団当初は『分福茶釜』の狸などコミカルな役を当たり役でしたが、1952年『源氏物語』の初演で可憐で無垢な若紫(紫の上の少女時代)を内・外面とも見事に表現し人気を獲得。
清純派の娘役として宝塚の一時代を築き、宝塚在団中に映画デビュー。
当時の「お嫁さんにしたい有名人」のランキングででたびたび首位に輝きました。
1957年5月、26歳の時に宝塚歌劇団を退団しました。

代表作は「岸辺のアルバム」

1957年に宝塚退団後は東宝との専属契約を経て、フリーで活動。
テレビドラマではおっとりとした良妻賢母役が好評を得ました。

1977年6月から放送された『岸辺のアルバム』(TBS)では家族に隠れて不倫する主婦役を演じ、それまでの良妻賢母的なイメージを打ち破り、新たな役どころを開拓。
同ドラマはテレビドラマ史に残る名作と評されました。

2004年に出演した映画『阿修羅のごとく』では、

第27回日本アカデミー賞・優秀助演女優賞

を受賞し、2017年には

第40回日本アカデミー賞・会長功労賞

を受賞しました。

結婚や夫、子供

八千草薫さんは1957年、26歳の時に結婚。
夫は19歳年上の映画監督・谷口千吉さん
谷口さんは3度目の結婚で、1956年に女優の若山セツ子さんと離婚しています。
年の差もあり当時は大きな話題になったといいます。
谷口さん2007年2月に95歳で他界。
八千草さんに子供はいませんでした。

晩年と死因

2017年末にすい臓が発覚。
2018年1月に手術を受け、術後は良好でドラマ収録や舞台『黄昏』の主演を務めましたが、2019年に入ると今度は肝臓にがんが見つかりました。
2019年4月から放送予定だった『やすらぎの刻?道』では主演のでしたが降板。
2月にはがんを公表し、5月26日には理事を務める日本生態系協会のイベントに出席。
これが公の場の最後の姿になりました。
2019年10月24日にすい蔵がんのため東京都内の病院にて死去。88歳でした。

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