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渡瀬恒彦の学歴・経歴・生い立ち〔大学 高校 中学校 小学校〕

学歴 渡瀬恒彦

「十津川警部」シリーズや「警視庁捜査一課9係」などで主演を務めた俳優の渡瀬恒彦さん。
俳優デビューしたのは大学卒業後、就職し社会人を経験した後でした。
この記事では渡瀬恒彦さんの学歴、経歴、生い立ちや、デビューのきっかけ、晩年や死因について紹介しています。

渡瀬恒彦の経歴・プロフィール

渡瀬恒彦のプロフィール

名前   渡瀬恒彦
生年月日 1944年7月28日
没年月日 2017年3月14日(72歳没)
出身   兵庫県
身長   174cm
血液型  AB型
所属   東映マネージメント

渡瀬恒彦の小学校

渡瀬恒彦さんの出身小学校は 淡路市立石屋小学校

島根県能義郡安来町(現・安来市)生まれ、兵庫県淡路島育ち。3歳年上の兄がいる2人兄弟。
兄は俳優の渡哲也さん。
父親は日立製作所の軍需工場での勤務を経て、戦後、渡瀬さんが3歳の時に兵庫県淡路島に移り洋品店「渡瀬洋装」を経営。父親は頑固で厳しい人だったといいます。

小学校は兵庫県淡路市岩屋にある石屋小学校に入学。
子供の頃はガキ大将で、小学生の頃からケンカが強く、友達をいじめた相手に向かっていくなど兄貴肌だったと小学校の同級生は話しています。

渡瀬恒彦の中学校

渡瀬恒彦さんの出身中学校は 三田学園中学校・三田学園高校

兵庫県三田市南が丘2丁目にある男女共学の私立学校。
1912年 (明治45年) に 開校した学校で、中学校の偏差値は60、高校の偏差値は61。
野球部は古豪で何人ものプロ野球選手を輩出した他、兄の渡哲也さんも卒業生です。

父親の「団体生活で独立心を養う」との教育方針で全寮制だった同校に入学。受験では2番の成績で合格しました。
中学時代には柔道部に所属し、3年生の時には黒帯を取得。
高校時代には水泳部に所属していました。
高校でも成績がよくスポーツも万能で、当時から女子に人気が高く、学校の運動会には渡瀬さん目当てのの女子学生が押しかけてきたといいます。
当時は新聞記者に憧れていました。

渡瀬恒彦の大学

渡瀬恒彦さんの出身大学は 早稲田大学 第一法学部 (偏差値68)

東京都新宿区西早稲田1丁目に本部がある私立大学。
大学受験では中央大学、慶應義塾大学の法学部には合格しましたが早稲田大学は不合格で、兄の渡哲也さんには「慶應に行け」と言われましたが、庭で不合格の通知を見て涙を流している母親を見て浪人を決意。
1年の浪人を経て早稲田大学に合格しました。

大学入学後は当時、青山学院大学に通っていた兄の渡哲也さんと一緒に暮らし始めました。
大学時代は空手部に所属し、二段を取得。ボクシングもやっていたといいます。
在学中の大学は学生運動の全盛期で、講義もなければ卒論もなく、高校時代からの「新聞記者になりたい」との夢もいつしか消えたといいます。
目標もないままの大学生活を送り、兄の渡哲也さんの「堅い道を進め」の言葉もあり大学卒業後は「電通PRセンター」に就職。
しかし、研修の1ヶ月で退職し、先輩が設立した青山の広告代理店「ジャパーク」に転職しました。

渡瀬恒彦の学歴

渡瀬恒彦の学歴

小学校 淡路市立石屋小学校
中学校 三田学園中学校
高校  三田学園高校
大学  早稲田大学

俳優になったきっかけ

広告代理店「ジャパーク」時代に休日に銀座を歩いていると、東映の役員に「俳優にならないか?」とスカウト。

『兄(渡哲也)の当時の給料を知っていたので、30歳まではやってみるかと思い、そのまま今に至ります。』

芸能界には興味はありませんでしたが、サラリーマンは安月給で、すでにスターだった兄の収入を知っていたことからデビューを決意。
1970年、26歳の時に「東映」には俳優として入社しました。

俳優デビュー後

1970年に東映に入社後、数日で主演映画が決定し、同年に映画「殺し屋人別帳」の主役としてデビュー。
デビュー時には集まったマスコミに「兄貴には小さい頃から勉強でも喧嘩でも負けた事がない。今やっても負けませんよ。」と延べ、当時、すでに日活のスターだったに兄の渡哲也さんへのライバル心を隠そうをしませんでした。
しかし、デビュー作の撮影時の演技は酷かったといい、渡瀬さんは「間違った世界にきてしまった」ととても落ち込んだといいます。
そんな渡瀬さんの思いとは裏腹に仕事は次々と入ったといい、、柔道や空手の有段者だったこともあり、任侠映画などでアクションススターのホープとして活躍。

1978年公開の映画『事件』で

日本アカデミー賞・最優秀助演男優賞
ブルーリボン賞・助演男優賞
報知映画賞・助演男優賞

を受賞したことが転機となり、1979年には主演映画『震える舌』『神様のくれた赤ん坊』で

キネマ旬報・主演男優賞

を受賞。1980年代半ばからはテレビドラマに軸足を移し、『十津川警部シリーズ』や『タクシードライバーの推理日誌』で主演。 2002年からは『おみやさん』、2006年からは『警視庁捜査一課9係』シリーズがスタートしました。

結婚歴や妻、子供

渡瀬恒彦さんの結婚歴は2度。
最初の結婚は1973年、29歳の時でした。
妻は同じ東映に所属していた3歳年下の女優の大原麗子さん。
馴れ初めは3本目の出演した映画『三匹の牝蜂』の共演。
この映画がきっかけで交際をスタートさせ、当時はすでに人気女優だった大原さんとの結婚は「格差婚」と言われたといいます。
離婚したのは結婚5年目の1978年。子供はいませんでした。

再婚したのは離婚の翌年の1979年で、妻は会社員だった女性。
子供は息子と娘の2人が誕生。
息子は渡瀬暁彦さんはTBSに勤務、娘はブライダル関係の会社で働いていたといいます。

晩年と死因

2015年8月末、体調不良から検査を受けたところ、胆のうがんが発覚。
医師には余命1年の告知を受けたといいます。
治療は手術ではなく抗癌剤の投与と放射線治療を受け、入退院を繰り返しながら仕事を続けました。

主演を務めていたドラマ『9係』のプロデューサーには2016年にがんであることを伝えて出演。
2016年6月から8月には『おみやさんスペシャル2』を撮影。
『おみやさんスペシャル』の後には『タクシードライバーの推理日誌』の新作の撮影も予定されていましたが体調不良から延期されました。
2016年12月24日から2017年2月12日までは遺作のとなった『そして誰もいなくなった』の撮影に参加、。
クランクインの際には

『皆さんご存知だと思いますが、私は癌です。それでもこの役を全うしたい』

 と挨拶し、撮影時の移動は車椅子、撮影の合間には酸素吸入器の管を鼻から挿入しながら撮影を終わらせました。
撮影終了後の2017年2月中旬に左肺の気胸を発症し入院。
3月に入るとて敗血症を発症しましたが、現場に戻るという執念は衰えず、『警視庁捜査一課9係 season12』の台本を読み、打ち合わせもこなしていましたが、2017年3月14日に細菌が血液を通じて全身を巡り容態が急変。
同日に、胆嚢がんによる多臓器不全のため都内の病院で死去。72歳でした。

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