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髙田延彦の学歴・経歴・生い立ち〔大学 高校 中学校 小学校〕

学歴 髙田延彦

無敗のまま引退した伝説の総合格闘家・ヒクソン・グレーシーと2度対戦した元プロレスラーの髙田延彦さん。
プロレスイベント「ハッスル」では高田総統として活躍しました。
この記事では髙田延彦さんの学歴、経歴、生い立ちについて紹介しています。

髙田延彦の学歴

髙田延彦の学歴

小学校  横浜市立上飯田小学校
中学校  横浜市立中和田中学校
高校   進学していません

髙田延彦の小学校

髙田延彦さんの出身小学校は 横浜市立上飯田小学校

1962年、神奈川県横浜市生まれ。本名は髙田 伸彦(たかだ のぶひこ)。父親は自動車関係の仕事をしていました。
父親は身長が160cmないくらいで、母親のほうが身長が高かったといいます。

小学3年生の時に両親が離婚。母親が家を出て行き、以降は父子家庭で育ち、夕食の時は高田さんがいつもご飯を炊いて、父親の作ってくれたおかずを食べる毎日でした。

当時は事情はわかりませんでしたが、母親に「出て行く」と宣言され、1週間ほどは家にて嫌な猶予期間があったといいます。

小学生の時には長嶋茂雄さんのファンで、3年生の時に野球チームに入りポジションはキャッチャー。
本当サードをやりたかったそうですが、チームに入った初日の練習15分くらいで監督にキャッチャーに指名されたたそうです。

選抜チームのオール横浜に選出されましたが、6年生の時に長嶋さんが引退すると、野球熱は冷めて野球は小学生で辞めました。

髙田延彦の中学校

髙田延彦さんの出身中学校は 横浜市立中和田中学校

中学時代はアントニオ猪木さんに憧れて、野球と入れ替わるようにプロレスに熱中しのめり込んでいきました。

当初は「猪木すげーな」とは思っていましたが、プロレスラーになろうとは思わず、なれるわけないとも思っていたといいます。

プロレスラーを目指すきっかけは中学2年生の冬、1人で横浜文化体育館にプロレスを見に行き、売店で買ったパンフレットをめくっていると、「君もプロレスラーになれる」という募集を見つけ、

『え、俺もプロレスラーになれるの?なっていいの?』

と思い、会場に入ると同年代の子が練習をしているのを見て、募集は「中卒」からだったことから。高校には進まないと決め、その日にプロレスラーになること決意しました。
以降は、学校にも行かずに新日本プロレスに入団するためにトレーニングを始め、父子家庭だったため当初はバレませんでしたが、半年ほどだった頃に担任が自宅に来て父親にバレ、そこで初めて父親に、

『レスラーになる。だからもう学校も行かない』

と伝えると、父親はなんとなく察していたのか、

『受けるのは1回だけにしろよ』

と条件付きで承諾してくれたそうです。

中学卒業の時点では、規定体重に届いておらず、父親との約束で入団テストは1回しか受けられないため、中学卒業後もアルバイトをしながらトレーニングを続け、ようやく規定体重に届いたのは17歳の時でした。

14歳から3年かけてやっと受けられたテストでしたが、当日には道に迷って遅刻し、着いた時にはすでにテストは終わっていたといいます。

遅刻して立ち尽くしていたところ、運よく風呂場から山本小鉄さんに発見され、「遅刻なんて、何考えているんだ!」と怒鳴られましたが、一通り試験をやってくれて、2週間後に合格通知が届きました。

髙田延彦の経歴

髙田延彦のプロフィール

名前   髙田延彦
生年月日 1962年4月12日
出身   神奈川県横浜市
身長   183cm
体重   93kg
血液型  A型
所属   レプロエンタテインメント

1980年に新日本プロレスへ入門。道場では藤原喜明さんと前田日明さんが兄貴分的な存在となり、スパーリングで鍛えら1981年5月9日にデビュー。
1982年からは憧れだったアントニオ猪木さんの付き人を務めました。

1984年に藤原喜明さんの誘いでUWFに移籍しましたが団体は崩壊し、再び新日本へプロレスに合流。

1988年には前田日明さんらと第2次UWFを立ち上げ。高田さんは前田さんに次ぐナンバー2の序列で一世を風靡したものの、1991年には前田さんのリングス、藤原さんの藤原組、高田さんのUWFインターナショナルの3団体に分裂。

高田さんは同団体で社長に就任。選手としても絶対的エースとして人気を博し、1992年にはプロレス大賞のMVPである年間最優秀選手に選出され、1994年4月からはフジテレビのスポーツニュース番組『スポーツWAVE』のキャスターを務めました。

しかし、UWFインターナショナルには高田さん以外の知名度のある選手がほとんどおらず、興業がうまくいかなかったことから、1996年12月にUWFインターナショナルは解散。

1997年からはの総合格闘技興行『PRIDE』の開始し関わり、PRIDE創生期に選手として活動ました。

メディアでは「400戦無敗の男」と言われたヒクソン・グレーシー選手とは2度対戦。
最初の対戦は1997年10月11日の「PRIDE.1」で、1ラウンド 4分47秒で腕ひしぎ十字固めで敗北。
2度目の対戦はちょうど1年後の1998年10月11日 で、この試合でも1ラウンド 9分30秒で腕ひしぎ十字固めで敗北しました。

2002年11月24日、PRIDE.23の田村潔司選手相手に引退試合を行い、2Rに右フックで失神KO負けしました。

試合後に田村選手を「田村、お前は男だ!」と褒め、その後、「Uインター出てこいや」といいその言葉が格闘ファンの中で流行り、引退後にPRIDE統括本部長に就任すると、全選手入場時に、「男の中の男たち、出てこいやー!」と発し、それをくりぃむしちゅーの有田さんがマネをしたことで、「出てこいや」のセリフは世間的んも知られるようになりました。

2008年からはプロレスイベント『ハッスル』で悪役レスラー軍団「高田モンスター軍」の「高田総統」として登場。

2013年にはレスリングと格闘技の道場『髙田道場』をオープンしました。

髙田延彦の結婚や妻・子供

髙田延彦は1994年1月に、2歳年下でタレント向井亜紀さん結婚。

テレビ出演していた向井さんを見て高田さんが一目惚れし、知人を介して紹介してもらい猛アプローチししたといいます。 初デートでは高田延彦さんが9本、向井亜紀さんが4本飲んで意気投合。

帰りのタクシー高田さんはプロポーズしましたが、高田さんはその時の記憶は全くないそうです。

その後、交際がスタートし5年の交際期間を経て結婚しました。

向井さんは結婚6年目の2000年9月に妊娠しましたが、同時に子宮がんを発症していることも発覚。

向井さんの強い希望で、妊娠可能な子宮の入り口の部分を円錐状に切り取る手術を行いましたが、後の検査でがんが取りきれていないことがわかり、最終的には子宮は全摘出。
卵巣は手術中に行った検査でがんが見つからなかったため残し、代理出産を選択。

2003年に卵子を3つ採卵することに成功し、代理母にの胎内に移植。

2003年11月に双子の男児が誕生しました。

2004年に出生届けを提出しましたが、日本法律では「産んだ女性が母親」とされるため受理されず、裁判で最高裁まで争いましたが実子とは認められることはなく、双子は「日本在住のアメリカ人」され、2009年に「特別養子縁組」を成立したことを公表しました。

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