「知りたくないの」などのヒット曲で知られる歌手の菅原洋一さん。
「ハンバーグ」の愛称で親しましれました。
この記事では菅原洋一さんの学歴、経歴、生い立ちについて紹介しています。
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菅原洋一の経歴・プロフィール
菅原洋一の小学校
菅原洋一さんの出身小学校は 加古川町立加古川第1尋常高等小学校
兵庫県加古川市出身。実家は寺家町商店街の若松屋結納店。
菅原さんの子供の頃は野菜や果物、乾物から棺桶まで売る店だったといいます。
母親は菅原さんを産んで間もなく他界。
父親は母親が亡くなってすぐに再婚し、実母のことはずっと伏せられていたため中学生までは存在はしばらく知らなかったといいます。
小学校は加古川町立加古川第1尋常高等小学校に入学。
兵庫県加古川市加古川町木村にある、現在の加古川市立加古川小学校です、
同小学校の出身者には弁護士の住田裕子さん、俳優の上野樹里さんなどがいます。
歌が好きになったのは5歳の頃で、ラジオを聴いて覚えた流行歌を店の休憩中の人の前で歌うと、拍手をもらい「うまいね」と言われたことが嬉しくで、それからよく人前で歌うようになったといいます。
菅原洋一の中学校
菅原洋一さんの出身中学校は 不明
子供の頃から身体が弱く、小学生の時には胸膜炎にかかり、中学時代には風邪をこじらせて一時心臓や腎臓を悪くし、中学から高校にかけては長期で学校を休むことも多かったといいます。
実母が亡くなっていたこと知ったのは中学1年生の時で、叔母から「あんたのお母さんは亡くなったんだよ」と教えられショックを受けて愕然とし、頭が真っ白になったといいます。
実母の事実を知ってショックを受けていた時に、ラジオから流れてきたアルゼンチンタンゴの「たそがれ」を聴き、その切ないメロディーがその時の自身の心境と重なり、心を揺さぶられタンゴが好きなったそうです。
菅原洋一の高校
菅原洋一さんの出身高校は 加古川東高校 (偏差値68~70)
兵庫県加古川市加古川町粟津にある男女共学の兵庫県立高校。
出身者にはお笑い芸人のレイザーラモンHGさんなどがいます。
高校でも音楽教室でコーラスしたりと歌うことを続けていました。
高校時代も病気がちで休むことが多く、勉強が追いつくのが大変で、特に数学は苦手でした。
大学受験の時には受験科目に数学がない大学を探したといいます。
菅原洋一の大学 こっそりタンゴを勉強
菅原洋一さんの出身大学は 国立音楽大学 声楽科 (偏差値46)
東京都立川市柏町5丁目にある私立大学。
高校3年生の時に受験科目に数学がなく、歌が好きだったことから音楽大学への進学を決意。
父親は大反対で「普通の大学に行け」と言われましたが、叔父たちが「この子は体が弱いから、やりたい事をやらせてあげたほうが良い」と説得してくれ、菅原さんも「音楽の先生になって、先生をやりながら店も手伝う」と説得し音楽大学への進学の了承を得たといいます。
当時の加古川には音楽大学の受験のための学校がなかったため独学で勉強し、国立音楽大学声楽科に合格しました。
大学ではタンゴを習いたと思っていましたが、当時、大学では軽音楽などの勉強をするこは禁止されていたといい、ひそかにタンゴのレコードを聞いた入り、タンゴ喫茶に通うなどをしてタンゴを勉強。
大学在学中にタンゴ喫茶のステージで歌わせてもらったりもしていました。
音大時代は大学生活を自由に満喫していましたが、4年生の時は東京を離れたくない一心で必死に勉強し、大学は首席で卒業。
卒業後はプロの歌手として活動しました。
菅原洋一の学歴
B面の曲が大ヒットし、あだ名は「ハンバーグ」
大学卒業後、歌っていたタンゴ喫茶で当時人気があったタンゴバンド『オルケスタ・ティピカ東京』にスカウト。
1958年、24歳の時に専属ボーカルとして歌手デビューしました。
4年後に「タンゴだけでなく様々なジャンルの曲が歌いたい」という気持ちが強くなりバンドを脱退。
1963年7月1日、30歳の時に『若い日本』でソロデビュー。
なかなか売れませんでしたが、1965年10月5日に発売した9枚目のシングル『恋心』のB面の『知りたくないの』がダンスホールや銀座のクラブホステスの間で徐々に人気が出始め、2年後の1967年に入ってから大ヒット。
同年末には第18回NHK紅白歌合戦に初出場。以降、1988年まで22年連続で出場しました。
『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)に出演した際に、うつみ宮土理さんの「ケロンパ」のあだ名を付けたよくあだ名をつけることで知られた同番組の司会者だった前田武彦さんに「3日前のハンバーグ」というあだ名を付けられ、以降は「ハンバーグ」の愛称で親しまれました。
引退を考えたことはないといい、90代になってもステージに上がっています。
結婚歴や妻、子供
菅原洋一さんは1962年。29歳の時に結婚。
妻は明美さんといい、菅原さんがタンゴ喫茶のステージで歌っていた頃に友人に付き添ってきた女子大生だでした。
売れる前の結婚で、明美さんの両親には結婚を反対され駆け落ち同然で結婚。
しばらくの間は6畳一間の部屋で生活をしていました。
子供は娘と息子に2人で、1964年7月に長女の香織さん、1970年5月に長男の英介さんが誕生。
香織さんは結婚をするまでソニーに勤務、英介さんは作業療法士ですが作曲活動も行い、ピアニストとして菅原さんのステージに上がることもあるといいます。