菅原文太の学歴・経歴・生い立ち〔大学 高校 中学校 小学校〕晩年は農業に従事

学歴 菅原文太 俳優

「仁義なき戦い」でブレイクし、「トラック野郎」シリーズのヒットでも知られる俳優・菅原文太さん。

晩年は農業に従事しました。

この記事では名優・菅原文太さんの学歴、経歴、生い立ちについて紹介します。

菅原文太の学歴

菅原文太の学歴

小学校  不明
中学校  宮城県築館中学校
高校   仙台第一高校 
大学   早稲田大学 

菅原文太の小学校

菅原文太さんの出身小学校は 不明

宮城県仙台市出身、父親は仙台市河北新報社で記者として勤務し、その後、洋画家や詩人としても活動、1歳年下の妹がいる長男。

3歳の時に両親は離婚、母親が家を出て行き、妹と共に宮城県栗原郡一迫町(現・栗原市)にある父親の実家に預けられた後、4歳の時に父親が再婚し東京に移り、小学4年生まで過ごしました。

父親の実家は地域では有名な豪農の家でした、

10歳の時に父親が出征すると、再び栗原市に戻り、12歳の時に終戦を迎えました。

菅原文太の中学校

菅原文太さんの出身中学校は (旧制)宮城県築館中学校

(旧制)宮城県築館中学校は、現在の築館高校。

宮城県栗原市築館字下宮野町にある県立高校で、現在の偏差値は48。

戦後は継母がバーを経営していました。

菅原文太の高校

菅原文太さんの出身高校は 仙台第一高校(偏差値69)

高校は東北屈指の進学校仙台第一高校に入学。

宮城県仙台市若林区元茶畑にある男女共学の県立高校。

出身者には作家の井上ひさしさんなどがいます。

菅原文太さんは受験に合格して入学しましたが、旧制中学から無試験で上がってきた生徒もいて、そんな生徒を見て「こいつらには負けられねえ」と思っていたといいます。

高校には父親が戦時中に着ていた、軍服や将校マント、コートなどで通学し、新聞部に所属。

当時の学校新聞は社会問題を多く取り上げ、批判する高校生が作るとは思えないような新聞で、全国学生新聞のコンクールで賞を獲得したこともあるといい、菅原文太さんは平和運動に取り組んでいました。

菅原文太の大学

菅原文太さんの出身大学は 早稲田大学第二法学部法学科(偏差値60)

大学受験では地元の東北大学を受けましたが不合格。

1年の浪人生活を経て、早稲田大学第二法学部に進学。

第二法学部は1965年に生徒募集を停止しています。

大学時代は仕送りはほとんどなく、いろんなアルバイトをしましたが、学費滞納で大学は2年で除籍になりました。

菅原文太の経歴・生い立ち

菅原文太のプロフィール

名前   菅原文太
生年月日 1933年8月16日
没年月日 2014年11月28日(81歳没)
出身   宮城県仙台市
身長   178cm
血液型  O型

1954年、21歳の時に劇団四季に1期生として入団、端役で多くの舞台に出演し、1956年、「哀愁の街に霧が降る」の端役で映画初出演。

モデルのアルバイトをしたことがきっかけで、1957年には日本初の男性専門モデルクラブ・SOSモデルエージェンシー(ソサエティ・オブ・スタイル)を設立し、雑誌やショーのファッションモデルとして活躍。

1958年、喫茶店で映画会社・新東宝にスカウトされ、映画俳優になる決意をして新東宝に入社、同年9月公開の「白線秘密地帯」で本格的に映画デビュー。

長身の新人二枚目スターの一団「ハンサムタワーズ」の一人として売り出されましたが、1960年になると、新東宝の経営が傾き、組合争議によって2回にわたり24時間ストが行われ、菅原文太さんは組合争議では陣頭で交渉役を務めました。

1961年に新東宝が倒産したため、松竹に移籍を経て、1967年に東映に移籍。

1969年からは「関東テキヤ一家」シリーズ、1971年からは「まむしの兄弟」シリーズで主演を務め、1972年から公開された「仁義なき戦い」シリーズでブレイク。

1975年からの「トラック野郎」シリーズも大ヒットしました。

1980年の大河ドラマ「獅子の時代」でドラマ初主演。

同年に映画「太陽を盗んだ男」で、

第3回日本アカデミー賞・最優秀助演男優賞

を受賞。

2002年の「サムライジャック」、2005年の「雪の女王」などアニメの声優も務め、2004年のアニメ「良寛さん」では主演し、幅広く活躍しました。

菅原文太の結婚と晩年

1969年に文子(ふみこ)さんと結婚。

文子さんはマネージャーも担当しました。

子供は娘が2人と息子が1人、1970年2月に誕生した長男の加織(かおる)さんは俳優で、ドラマ、映画、Vシネマで活躍していましたが、2001年10月23日、東京都世田谷区北沢の小田急小田原線の踏切内で上り電車に撥ねられ、31歳で死亡。

携帯電話で話しをしていて、「酒を飲んでいたようだ」との目撃証言もありました。

事故で息子を亡くし、菅原文太さんは周囲に「もう仕事したくない」と漏らしていましたが、2003年にドラマ「高原へいらっしゃい」(TBS)で仕事復帰、同年公開の映画「わたしのグランパ」で9年ぶりに主演を務めました。

私生活では、消費社会というものに強い疑問を感じるようになり、1998年から別荘を持っていた岐阜県清見市に妻と共に移住。

2009年からは山梨県韮崎市で耕作放棄地を使って農業を始めました。

2007年に膀胱がんのステージ2が発覚、余命1年半の宣告を受け膀胱の全摘出を勧められますが、菅原文太さんは摘出を拒否。

その後、「手術をしなくても大丈夫」という医者にめぐり合い、3ヶ月の入院で抗がん剤の3回投与、放射線を23回、陽子線を11回照射する治療を行い、温存療法で5年生存を乗り切りました。

しかし、その後、肝臓への転移が発覚しましたが、妻の文子さんは本人には伝えなかったそうです。

2014年11月13日に定期健診で病院へ行きそのまま入院、11月28日に転移性肝がんによる肝不全により東京都内の病院で、81歳で死去しました。

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