ドラマ『必殺仕事人』の主人公・中村主水の姑役などドラマ、映画で名脇役として活躍した女優の菅井きんさん。
女優としては遅咲きでした。
この記事では菅井きんさんの学歴、経歴、生い立ちを紹介ています。
菅井きんの学歴
菅井きんの小学校
菅井きんさんの出身小学校は 東京市本村尋常小学校
東京府東京市牛込区早稲田町(現・東京都新宿区)出身、出生名は須斎公子(すさい きみこ)。
父親は織物の商いを営み、姉、2人の弟、妹の5人兄弟。
幼少期は内向的で病弱でもありました。
入学した本村尋常小学校は、現在の港区立本村小学校。
戦時中は千葉県船橋市に疎開していました。
菅井きんの中学校、高校
菅井きんさんの出身中学校、高校は 頌栄高等女学校
東京都港区白金台にある私立の女子校で、現在の頌栄女子学院中学校・高校です。
お嬢さま学校として知られ、現在の中学校の偏差値は63。
完全中高一貫教育のため高校では生徒募集はなく、偏差値はありませんが、毎年、東京大学に合格者が出る進学校です。
高校卒業後は、文部省総務課に就職しました。
菅井きんの経歴
文部省総務課時代には、東京帝国大学学生課で事務職員としても勤めていました。
終戦直後の1946年、20歳の頃に友人に誘われて、舞台『人形の家』を観て感銘を受け、俳優を志しました。
父親には「女優という職業は、美人がなるもんだよ」と猛反対されましたが押し切って、1947年に東京芸術劇場研究所に入所。
反対した父親は菅井さんの出演した舞台を観ることなく亡くなったといいます。
東京芸術劇場研究所は入所後、すぐに解散してしまい、劇団俳優座に入団して初舞台を踏みました。
俳優座時代の映画俳優としてスカウトされ、1951年公開の『風にそよぐ葦 後編』で映画デビュー、1952年には黒澤明監督映画『生きる』に陳情の主婦 役で出演。
1954年には『ゴジラ』に小沢婦人代議士 役で出演、翌年の1955年公開の『愛のお荷物』でもほぼ同じ服装の野党の議員役で出演しました。
1960年代になるとドラマにも出演するようになり、女優として人気となったのは1973年から放送された『必殺シリーズ』シリーズでした。
当時、菅井きんさんは48歳。
主演で婿役の藤田まことさんとは7歳違いでしたが、姑役を演じ、『ムコ殿!』のセリフで知られるようになり、2009年まで出演しました。
必殺シリーズは男性向けのドラマのため、奥さんなどの女性視聴者を獲得するために、『必殺仕置人』から怖い義母と妻がいる設定にし、見た目がきついお義母さん役として、老け顔の菅井さんにオファーがあったそうです。
菅井きんのの結婚と子供
菅井きんさんの夫は、8歳年上の映画プロデューサーの佐藤正之さん。
1948年に『俳優座』に入団し、舞台や映画の企画、製作に携わっていて、菅井さんとはほぼ同期で、1950年に結婚しています。
菅井きんさんが24歳の頃でした。
佐藤正之さんは俳優座で映画部長となり、仲代達矢さんを育て、1968年俳優座映画放送設立とともに社長に就任。
1996年に78歳で亡くなりました。
子供は娘が1人で、名前は中子さん。
菅井きんさんが30歳の頃に誕生したようです。
菅井きんの晩年と死因
菅井きんさんは2010年にNHK大河ドラマ『龍馬伝』、び映画『瞬 またたき』に出演したのを最後に女優として事実上引退。
当時、84歳でした。
2014年には一部の週刊誌で「菅井の知人による情報」として、「重度の認知症を患っており、現在は特別養護老人ホームに入居している」と報道されましたが、同年10月には情報番組『ノンストップ!』(フジテレビ)に出演し、年ぶりにインタビューに応じ元気な姿を見せ、認知症であることは否定。
仕事をしていないことについては、2010年に自宅で転倒して大腿骨を骨折してしまい、一時高齢者向け施設で療養し、以来、自分の足では歩けなくなったためだと話し、リハビリは続けているものの、仕事復帰は諦めているとも話しました。
2018年8月10日、心不全のため、東京都内の自宅で92歳で死去。
愛煙家で、亡くなる2週間前までタバコを吸っていたといいます。
遺作は2010年の大河ドラマ『龍馬伝』でした。
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