ドラえもんの声優を26年務めた声優の大山のぶ代さん。
最初は劇団に入団し、女優としてデビューしました。
この記事では大山のぶ代さんの学歴、経歴、生い立ちについて紹介します。
大山のぶ代の学歴
大山のぶ代の小学校
大山のぶ代さんの出身小学校は 渋谷区立広尾小学校
4世代が同居する13人の大家族の13番目として生まれ、実家は会社を経営していて裕福でした。
兄とは11歳離れていて子供は大山のぶ代さんだけ、同居していた曽祖父母は江戸時代の生まれで、祖父母、や祖母から生活の千恵を自然に学びながら育ったといいます。
戦時中、小学生の時には父方の叔父がいる福島県に疎開していました。
小学生の頃から自分では気が付きませんでしたが、「男みたいな声」と言われ、出席をとるとき「はい」と返事をすると先生に変な顔をされたともたびたびあり、だんだん自分の声がおかしいと思うようになったそうです。
大山のぶ代の中学校
大山のぶ代さんの出身中学校は 渋谷区立広尾中学校
中学生になると声のことで笑われていじめられるようになり、元々はお喋りでしたが、落ち込んで口をきくのも嫌になり無口になっていっていきましました。
そんな時、母親に
『弱いところはうんと使いなさい。そうすれば強くなるのよ』
と言われ、翌日には放送研究部に入部。
放送劇では娘役以外、子供から老人まで全て担当させてもらえたといい、入部から1ヶ月後には声を笑う人はいなくなったそうです。
演劇部にも入り、文化祭ではシンデレラの舞台に選ばれ、継母を演じたといいます。
大山のぶ代の高校
大山のぶ代さんの出身高校は 三田高校(偏差値67)
東京都港区三田にある男女共学の都立高校。
出身者にはインドネシア大統領元夫人のデヴィ・スカルノさん、俳優の金子貴俊さんなどのがいます。
高校時代は演劇部と水泳部に所属。
高校2年生の時に母親が子宮がんのために42歳の若さで死去。
入部した部活は、母親の看病のためい退部しました。
母親の死がきっかけで、高校在学中に「劇団・俳優座養成所」の6期生として入所。
同期には市原悦子さんがいました。
大山のぶ代の経歴
俳優座養成所卒業後、1956年、22歳の時に『この瞳』(HNK)でドラマデビュー。
同じく同ドラマでデビューした冨士眞奈美さんとは意気投合し、お互い収入が少なかったことから、約4年ほど安アパートの同じ部屋に同居していました。
1964年に俳優の砂川啓介さんと結婚。
大山のぶ代さんが31歳で、砂川啓介さんは4歳年下で27歳。
孫悟空の舞台での共演が馴れ初めでした。
砂川啓介さんは俳優としてだけでなく、1980年から6年間『お昼のワイドショー』(日本テレビ)で司会を務めるなど、タレント、ラジオパーソナリティとしても活躍しました。
妊娠は2度しましたが、第1子は7ヶ月で流産、第2子は先天性心臓疾患のため生後3ヶ月で亡くなっています。
夫の砂川啓介さんは、2017年6月に脳梗塞で入院し、療養中だった2017年7月11日に尿管癌のために80歳で死去しました。
ドラえもんの声優
声優としてはアニメ黎明期から活躍し、1957年の『名犬ラッシー』の吹き替えでデビュー。
1965年には『ハッスルパンチ』で初主演を務めました。
ハスキー声でやんちゃな喋り方をする演技が特徴的で、1970年からはアニメ『のらくろ』の主人公・のらくろを担当。
1979年4月から代表作である『ドラえもん』のドラえもんの声を担当し、2005年3月まで26年間務めました。
71歳の引退でした。
大山のぶ代さんドラえもんの名セリフ『ぼく、ドラえもん』をアドリブで生み出し、原作者の 藤子・F・不二雄さんが『ドラえもんはこういう声だったんですね』と認めるほどのハマリ役でした。
ドラえもん引退後
2008年4月に音響芸術専門学校の校長に就任。
同月に心筋梗塞と脳梗塞を併発して緊急入院しましたが投薬治療を行い、8月に退院。
その後、自宅療養とリハビリをで日常生活の不安はないまでに回復し、仕事を再開。
2013年に音響芸術専門学校の校長を退任しました。
2012年秋にアルツハイマー型認知症との診断を受け、しばらくは内密にされましたが、2015年5月に夫の砂川啓介さんのよりラジオで明らかにされました。
その後、は2014年から2015年にかけてWEBアニメ『おにくだいすき! ゼウシくん』の声優を担当しました。
夫の砂川啓介さんの尿管癌の発覚後は、2016年4月より老人ホームに入所。
2017年に砂川啓介さんが亡くなった時は、臨終には立ち会えず、葬式では喪主となりましたが、通夜と葬儀には出席しませんでした。
『気になる大山さんの今後だが、引き続き介護施設で過ごすという。今は元気にしており、時折笑顔も見られるそうだ。』
大山のぶ代さんは夫の死後も、引き続き介護施設で生活しているといいます。