「すこし愛して、なが~く愛して。」のキャッチフレーズでサントリーのCMに出演していたことでも知られる女優の大原麗子さん。
大河ドラマ「春日局」では主演を務め、歴代3位に高視聴率を記録しました。
この記事では大原麗子さんの学歴、経歴、生い立ちについて紹介しています。
大原麗子の経歴・プロフィール
大原麗子の小学校
大原麗子さんの出身小学校は 府中市立府中第四小学校
東京都文京区生まれ。本名は飯塚 麗子(いいづか れいこ)。3歳年下の弟がいる長女。
実家は文京区の和菓子屋「田月堂」。老舗和菓子屋を経営する父親と、教師だった母親のあいだに誕生しました。
生まれたの終戦直後で物資不足の時代でしたが、家庭は裕福でした。
幼少期には弟の面倒をよく見てケンカも強く、弟が近所の子にイジメられると、大原さんがその子を泣かせていたといいます。
しかし、父親の暴力がひどく、8歳の時に父親の暴力と浮気が原因で母親は家をでました。
弟は父親、大原さんは母親に引き取られ、文京区から府中市に移り、4畳半一間のアパート暮らしを始め、父親が養育費を出さなかったために母親は昼は都庁の下請けをしている会社で事務の仕事、夜は皿洗いをして昼夜働いていたといいます。
小学校は府中市立府中第四小学校を卒業。
生活が苦しい中、母親は大原さんはバレエ教室んに通わせていたといいます。
小学6年生の時には学芸会の演劇「パンドラの匣(はこ)」で主役を演じ、劇が終わった時には大きな拍手をもらいました。
大原麗子の中学校
大原麗子さんの出身中学校は 潤徳女子中学校
東京都足立区千住2丁目にあった私立の女子校。2005年以降は休校になっています。
中学に入学後は両親は正式に離婚。母親の実家の北区赤羽に移りました。
この頃には「母親を楽にさせてあげたい」と芸能界に入って成功することを目指し、オーディションを受けてたそうです。
実家では同居していた母親の姉が厳しい人で、そりが合わず衝突を繰り返したといいます。
居場所を失った大原さんは六本木に繰り出すようになり、中尾彬さん、井上順さん、峰岸徹さんなどが所属していた遊び人グループの「六本木野獣会」に参加。
これがきかっけでスカウトされて芸能界入りし、中学時代はエキストラで映画に出演していました。
大原麗子の高校
大原麗子さんの出身高校は 北豊島高校 (偏差値45~53)
東京都荒川区東尾久6丁目にある私立の女子校。
出身者には俳優の丘みつ子さん、タレントの原千晶さんなどがいます。
映画にエキストラで出演した後、1964年、18歳の時にテレビドラマ『幸福試験』(NNK)で本格的に女優デビューしました。
大原麗子の学歴
好感度No・1女優として君臨
高校卒業後の1965年に東映へ入社。
一押し新人女優として売り出され、高倉健さん主演の映画『網走番外地シリーズ』に出演すると人気を獲得。
1971年、東映との契約切れを機に渡辺プロダクションに移籍。
東映時代は会社が「不良性感度映画」を中心に製作していたことから、大原さんはスケバンや酒場のホステスなど演じていましたが、テレビドラマでは一転してしっとりした役を演じています。
1977年からはサントリーのCMに出演しすこし愛して、ながーく愛して」のセリフで視聴者の子心を掴み、CMはシリーズ化され1987年まで10年間出演しました。
このCMで一世を風靡し、「好感度ナンバーワン女優」として君臨し。通算で13回の1位を獲得。
1989年の大河ドラマ『春日局』では主演を務め、大河ドラマ歴代3位となる平均視聴率32.4%を叩きだし、その演技力は高く評価されました。
結婚歴や夫、子供
大原麗子さんの結婚歴は2度。
最初の結婚は1973年、26歳の時で、夫は3歳年上の俳優・渡瀬恒彦さん。
大原さんと渡瀬さんは同じ東映に所属し、年齢は渡瀬さんが年上ですが大学を卒業後に入社しため後輩でした。
高倉健さんとの食事会で出会い交際に発展。
結婚時はまだ渡瀬さんの知名度は低かったことから「格差婚」と報じられたといいます。
離婚したのは結婚5年目の1978年でした。
離婚から2年後の1980年。33歳の時に1歳年下の演歌歌手・森進一さんと再婚
2人は同じ渡辺プロダクションに所属していました。
結婚4年目の1984年に離婚。
離婚会見で大原さんは「家庭に男が2人いた」と結婚生活を振り返りました。
2度の結婚とも子供はいませんでした。
晩年と死因
大原麗子さんは1975年、29歳の頃に神経疾患であるギラン・バレー症候群を発症。
ギラン・バレー症候群は末梢神経の障害によって、力が入らない、感覚がわかりにくい、しびれるなどの症状があり大原さんは苦しみましたが、治療によって一時は回復。
しかし、1999年11月から再発し芸能活動を休止しました。
治療、療養中も復帰に向けてリハビリやトレーニングに励んでいましたが、当時は母親の介護もあり、長く公の場で姿を見せることはありませんでした。
2008年末には復帰について「そろそろ復帰したい。死ぬまで仕事がしたい」と話していましたが、2009年8月6日に連絡が取れず不審に思って警察に通報していた弟によって、自宅で死亡しているのを発見。62歳没。
行政解剖の結果、死亡推定日時は同年8月3日。死因は不整脈による脳内出血であると診断されました。