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奥田民生の学歴・経歴・生い立ち〔高校 中学校 小学校〕

学歴 奥田民生

ロックバンド・ユニコーンのボーカルで音楽プロデューサーとしても活躍する奥田民生さん。
この記事では奥田民生さんの学歴、経歴、生い立ちなどについて紹介しています。

奥田民生の経歴・プロフィール

奥田民生の経歴・プロフィール

名前   奥田民生
生年月日 1965年5月12日
出身   広島県
身長   171cm
血液型  B型
所属   ソニー・ミュージックアーティスツ

奥田民生の小学校 ギターを始めたきっかけ

奥田民生さんの出身小学校は 広島市立尾長小学校

広島県広島市出身。兄弟はなく一人っ子。
父親は元国鉄職員で、共産党ら立候補し広島市議選に当選し3期12年務めました。
引退後は飲食店を経営していたといいます。
両親は共働きで、母親は音楽好き。特にエルヴィス・プレスリーや西城秀樹のファンで、自宅にはたくさんのレコードがあり、母親の影響で音楽に興味を持ったといいます。

小学校は広島市東区山根町にある尾長小学校に入学。
小学生までは小児ぜん息でどちらかといえばインドア派。体型もぽっちゃりしていて家で音楽を聴いていることも多く、小学校高学年の夏休みにアニメ「アニメ・ザ・ビートルズ」見たことがきっかけでビートルズの音楽が好きになり、お小遣いを貯めてアルバムをかったといいます。

小学生の時には車の修理工場をしている親戚によく預けられていて、そこに古いアコスティックギターがあって自然と手に取るようになり、工場に出入りしていたお兄ちゃんが弾き方を教えてくれたそうです。







奥田民生の中学校 バンドを結成

奥田民生さんの出身中学校は 広島市立二葉中学校

広島県広島市東区光町2丁目にある公立中学校。
同中学校の出身者には歌手の西城秀樹さん、フジテレビアナウンサーの三宅正治さんなどがいます。
中学時代はテニス部に所属。中学2年生の時には生徒会副会長を務めました。

中学から本格的にギター始め、友達に誘われてバンドも結成。ギター担当で公民館を借りて練習し、ビートルズやキッスのコピーをしていました。
中学時代はモテモテで、卒業式にはボタンを全部取られたとそうです。

奥田民生の高校 ボーカルに転向

奥田民生さんの出身高校は 広島皆実高校 普通科(偏差値59)

広島県広島市南区出汐二丁目にある男女共学の広島県立高校。
1901年(明治34年)創設の「広島県立広島高等女学校」を前身とする歴史の長い学校で、設置学科は 普通科、衛生看護科、体育科。広島県内で唯一、看護教育を行っています。
サッカーの強豪校で出身者のは多くのサッカー選手の他、シンガーソングライターの吉田拓郎さん、お笑い芸人の森村あすかさんなどがいます。

高校時代はアーチェリー部に所属。県の新人戦では優勝しました。
バンド活動もしており、中学ではギターで歌はハモリだけでしたが、バンドのボーカルが受験勉強で抜けたため、自然と歌うようになり歌に専念するようになりました。
高校時代に漠然とミュージシャンになりたいと思うようになったといいます。

奥田民生の専門学校

奥田民生さんの出身専門学校は 広島電子専門学校 (偏差値-)

広島県広島市にあった専門学校で、ジ2009年に広島会計学院と統合され「広島会計学院電子専門学校」になりました。

ライブハウスで大学のサークルのバンドが、ノルマのようにお互いのチケットを買い合ってるのを見て、「面倒くさそう」と思い大学には進学せずバンドを続けようと思ったそうでず。
焦って就職はせずにバンド活動を続けたいとの思いから専門学校に入学させてもらったと話し、その後、専門学校は中退し本格的にバンド活動に専念しました。

奥田民生の学歴

奥田民生の学歴

小学校    広島市立尾長小学校
中学校    広島市立二葉中学校
高校     広島皆実高校
専門学校   広島電子専門学校(中退)

ユニコーンでデビュー

1986年にユニコーンにボーカルとして加入。
同年7月にソニーミュージックのオーディションに合格。翌年の1987年に上京しました。
1987年10月にアルバム『BOOM』を発売しデビュー。
1989年4月、奥田さん作詞・作曲のシングル『大迷惑』を発売。
オリコンチャート12位に入るヒット曲となり、3枚目のシングル『働く男』は3位となり初のトップ10入りを果たしました。
1989年7月10日、初の日本武道館でのライブを開催。1990年、4thアルバム『ケダモノの嵐』が第32回日本レコード大賞アルバム賞を受賞しました。
しかし、音楽性の違いから1993年に解散。
その後、2009年に活動再開し、同年2月4日に13年ぶりにシングル『WAO!』発売。
オリコンチャート3位にランクインしました。

ソロ・プロデューサーとして活躍

1992年8月29日にシングル『休日』にを発売しソロデビュー。
オリコン3位となり、1994年10月21日の2枚目のシングル『愛のために』は自身最高の2位にランクインし、ミリオンセラーを達成しました。
1996年5月には音楽プロデューサーとして、女性デュオ「PUFFY」をデビューさせ、5月13日に発売した『アジアの純真』は気力感、気だるそうな立ち居振る舞いが話題になり、大ヒット。
続く『これが私の生きる道』、『サーキットの娘』、『渚にまつわるエトセトラ』は3枚連続でオリコン1位を獲得しました。
他にもKinKi Kids、柴咲コウさん、藤井フミヤさん、木村カエラさんなど多くのアーティストにも楽曲を提供しています。

妻や子供

奥田さんは1995年9月、30歳の時に5歳年上でスタイリストの美由紀さんと結婚。
妻の美由紀さんはユニコーン時代のスタイリストだったといいます。
子供は娘と息子の2人がいるようです。

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