沖雅也の学歴・経歴・生い立ち〔大学 高校 中学校 小学校〕

学歴 沖雅也 俳優

「必殺シリーズ」や「太陽にほえろ」などにレギュラー出演し人気俳優だった沖雅也さん。
中学時代に家出して上京しています。
この記事では沖雅也さんの学歴、経歴、生い立ちや、デビューのきっかけや、晩年や死因などについて紹介しています。

沖雅也の経歴・プロフィール

沖雅也の経歴・プロフィール

名前   沖雅也
生年月日 1952年6月12日
没年月日 1983年6月28日(31歳没)
出身   大分県
身長   183cm
血液型  B型
所属   JKプランニング

沖雅也の小学校 裕福な家庭に生まれる

沖雅也さんの出身小学校は 不明

大分県別府市生まれ。姉と妹がいる長男。出生名は楠 城児(くすのき じょうじ)。
1975年の父親の死後は、所属事務所の社長だった日景忠男さんと養親組みし、日景 城児(ひかげ じょうじ)になっています。

父親の職業は石油卸売業、祖父は東京帝国大学医学部出身の医師で病院を経営しており、裕福な家庭に生まれました。
しかし、父親の事業の失敗により、大分県大分市に転居。その後は大分市内を転々とする生活を送っていたといいます。
卒業した小学校は大分市内の公立小学校のようですが学校名は不明。
小学生の頃には手に負えないほどのイタズラをするなど、やんちゃだったといいます。

沖雅也の中学校 家出し1人で上京

沖雅也さんの出身中学校は 大分市立王子中学校

大分県大分市南春日町にある公立中学校。
同中学校の出身者には俳優のユースケ・サンタマリアさん、タレントの指原莉乃さんなどがいます。
入学した中学校は大分県大分市大分市泉町にある大分市立碩田中学校で、その後、引っ越して王子中学校に転校しました。

中学2年生の時に両親が離婚。父親に引き取られましたが、父親と折り合いが悪く、1968年11月、中学校の卒業前に家出。
全財産の10万円とバック1つで上京しました。

沖雅也の高校

沖雅也さんの出身高校は 通信制の高校 (偏差値-)

中学校は卒業していませんでしたが、デビュー前に大分市内のホテルで代議士や市長も参加するレセプションが開催され、その際に王子中学校の校長から沖さんに卒業証書が手渡されました。
その後、通信制の高校に入学し、卒業したようです。
それ以前のプロフィールは「大分舞鶴高校を3年生の時に中退」となっていたといいます。

沖雅也の学歴

沖雅也の学歴

小学校  不明
中学校  大分市立王子中学校
高校   通信制の高校
大学   進学していません

デビューのきっかけ

中学3年生で家出し上京後、当日はホテルニューオータニへ宿泊。
翌日からは氏名と年齢を偽って、住み込みで中華そば屋の店員、カステラ工場の配送員の助手、スナックのバーテンダーなど職を転々としていました。
スナック時代に客からスカウトされもモデルの仕事を始めましたが、仕事は単発的なもので生活は苦しかったといいます。
1968年、16歳の時にオスカープロモーションの創業者の古賀誠一さんにスカウト。
その後、日活関係者に紹介され、1968年12月公開の映画『ある少女の告白 純潔』で俳優デビューしました。

必殺シリーズなどで活躍

1969年には第14回エランドール新人賞を受賞。
その後、数々の日活映画で助演しましたが、大きな役には恵まれませんでした。
1971年8月公開の映画『八月の濡れた砂』で初主演が決定しましたが、撮影開始直後にオートバイ事故で負傷し降板しています。

1971年10月から放送されたテレビドラマ『さぼてんとマシュマロ』(日本テレビ)で主演を務めると人気を博し、1972年には人気アクションドラマ『キイハンター』に出演し、若手俳優として注目されました。
1972年11月公開の映画『高校生無頼控』で映画初主演。
1973年には必殺シリーズの第2作『必殺仕置人』(朝日放送)の棺桶の錠役に抜擢。
1975年のシリーズ第6作『必殺仕置屋稼業』にもレギュラー出演し、この時は棺桶の錠とはガラリと印象の変わった冷徹な殺し屋・市松を演じました。
同年にはクイズ番組『連想ゲーム』(NHK)でレギュラー解答者を務め、1976年からがゲスト出演を経て、『太陽にほえろ!』(日本テレビ)に滝隆一・スコッチ刑事役でレギュラー出演しました。

晩年と死因

1980年頃から精神的な病を抱えていたといわれ、1981年4月には父の墓参りに向かうため東名高速道路でキャデラックを運転中に自動車事故を起こしいます。
ケガは軽い捻挫だけで済みましたが、躁うつ病と診断され2週間入院。
退院後はも精神安定剤を服用しながら現場に復帰しましたが、、肝臓炎の発症や薬の副作用によるむくみや肥満などから躁うつ病が悪化し、3ヵ月後には再び長期で休養を余儀なくされていました。

その後は、舞台などで復帰しましたが、1983年6月28日早朝、東京・新宿の京王プラザホテルの最上階(47階バルコニー・高さ170メートル)から警備員の制止を振り切って飛び降り、ビル7階の屋上プールに落ちて全身を強く打ち即死。31歳でした。

遺書には「おやじ 涅槃(ねはん)で待つ」と書かれており、この「おやじ」とは1975年に養子縁組した義父日景忠夫さんのことだったといいます。
亡くなった後に日景さんは会見を開き「自死の原因はわからない」としながら、「彼が僕の全てだった」と述べています。
沖さんは結婚はしておらず、生涯独身した。

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