元NHKアナウンサーで、ドラマ『キイハンター』でブレイクした女優の野際陽子さん。
『ずっとあなたが好きだった』の冬彦さんの母親で再ブレイクしました。
この記事では野際洋子さんの学歴、経歴、生い立ちについて紹介します。
野際陽子の学歴
野際陽子の小学校
野際陽子さんの出身小学校は 杉並区立杉並第五小学校
石川県河北郡津幡町で生まれ、3歳まで富山県富山市で育ち、以降は東京都杉並区天沼で育ちました。
父親は商社に勤務する会社員、弟が2人、妹が2人いる5人兄弟の長女。
小学生の時に、戦争の悪化の伴い空襲に備えて学童疎開で母方の実家のある石川県津幡町に疎開するため向かいましたが、すでに親戚が大勢押し寄せていたため東京へ戻ることになり、その途中に3歳まで育った富山県に寄ると、どこかのどかで、戦争もはるか遠くに感じられたといいます。
短い夏を富山県で過ごし、東京に戻ると秋から本格的な空襲が開始され、再び石川県津幡町に疎開。
津幡の駅に着くと、見渡す限り一面が雪で覆われていたそうで、厳しい雪国での疎開生活だったそうです。
9歳の時に終戦を迎えました。
野際陽子の中学校・高校
野際陽子さんの出身中学校・高校は 立教女学院中学校・高校
立教女学院中学校・高校は、東京都杉並区久我山にある私立の女子校。
中学校の偏差値は61。
高校は内部進学で、立教女学院高校に進学。
中高完全一貫教育のため高校での生徒募集ななく、偏差値はありませんが、慶応大学や早稲田大学に毎年多くの合格者を出す進学校です。
出身者にはミュージシャンの松任谷由実さん、女優の市毛良枝さん、アナウンサーの中村江里子さんなどがいます。
高校時代に洋楽や外国映画に夢中になっていました。
映画館に何度も通いましたが、レコードは高価だったため、ラジオを聴いて歌を覚えたそうです。
野際陽子の大学
野際陽子さんの出身大学は 立教大学文学部英米文学科(偏差値60)
東京都豊島区西池袋に本部がある私立大学。
大学時代には初代ミ立教に選出され、ESSの英語劇セクションと劇団テアトルジュンヌに所属、四大学英語劇大会など数々の作品に出演しました。
ESSの1年先輩に芸能リポーターの東海林のり子さんがいて、「ノッコ」、「ノギ」と呼び合う生涯の親友になっています。
大学の同期には長嶋茂雄さんがいました。
大学卒業後は、NHKにアナウンサーとして入社しました。
野際陽子の経歴
1958年にNHKにアナウンサーとして入局。
3ヶ月の研修後に名古屋放送局に赴任し、天気・婦人向け番組を担当。
翌年の伊勢湾台風の災害報道にも関わりました。
1960年にNHK東京放送局(現・NHK放送センター)に赴任。
朝の情報番組『おはようみなさん』の司会を週1回担当するなど、週3本のレギュラー番組を担当しました。
1962年にNHKを退職し、企画を説明する担当として広告代理店に転職。
入社3ヵ月後にTBSの15分の生放送番組『女性専科』の司会者を担当なり、その後、同局のワイドショー番組『3時にあいましょう』でも船越英二さんと司会を務め、2人の掛け合いが人気を博しました。
1963年にTBSのプロデューサーに誘われ、同局のドラマ『悲の器』で女優デビュー、翌年の1964年には『風の武士』で映画デビューしました。
1966年2月から念願だったパリへ留学、ソルボンヌ大学で古典仏文学を学び、翌年に帰国。
1968年から刑事ドラマ『キイハンター』(TBS)に元フランス情報局諜報部員・津川啓子 役で5年間出演、視聴率は30%を超え、人気女優となり、主題歌の『非情のライセンス』も歌いました。
1992年、テレビドラマ『ずっとあなたが好きだった』(TBS)でマザコンでオタクの冬彦役を演じた佐野史郎さんを溺愛するしたたかな母親役の怪演が話題となり、最終回では視聴率34.1%を記録して再ブレイク。
以降、着物姿の姑役で多くのドラマに出演しました。
野際陽子の結婚と離婚
1973年に『キイハンター』で共演した千葉真一さんと結婚。
千葉真一さんは、初対面では人見知りの野際陽子さんのぎこちない挨拶が、お高く高くとまっている見えたといい、最初に印象は良くなかったそうですが、話してみると印象が全然違い、打ち解けて交際がスタート。
交際期間は約2年だったそうです。
1975年に長女の真瀬樹里を出産。
38歳11か月での初産は当時の芸能人の高齢出産最高齢記録でした。
結婚21年目の1994年に千葉真一さんと離婚。
離婚の理由はアメリカを拠点にしたかった千葉真一さんと、日本に居たかったの野際陽子さんとの意見の食い違いだったといいます。
野際陽子の晩年と死因
2014年に肺癌と診断され手術しましたが、翌年の2015年に再発。
再手術で腫瘍摘出手術を行いましたが、2016年、遺作となったドラマ『やすらぎの郷』(テレビ朝日)の撮影に参加中にまた癌が再発。
日々体調は悪化していましたが、それを周囲に隠しながら、2017年5月7日まで撮影を続行し代役の効かない重要なシーンをすべて撮り終えました。
しかし、その翌日の5月8日に肺炎を併発して入院。
以降は容態が回復することはなく、約1か月後の6月13日に81歳で亡くなりました。