「嫁に来ないか」などのヒット曲で知られる演歌歌手の新沼謙治さん。
同曲のヒット後は嫁候補が殺到したといいます。
この記事では新沼謙治さんの学歴、経歴、生い立ちや、デビューのきっかけ、結婚や妻、子供などについて紹介しています。
Contents
新沼謙治の経歴・プロフィール
新沼謙治の小学校
新沼謙治さんの出身小学校は 大船渡市立猪川小学校
岩手県大船渡市出身。姉が2人と妹が1人いる4人きょうだいの長男。
父親はセメント会社に勤務、母親は家事、畑仕事の後、工場でパートに出ていました。
実家の裏は山で、そばを流れる小川も遊び場でだったといいます。
父親は民謡が得意し新沼さんも子供の頃から歌が大好きでした。
小学校は岩手県大船渡市猪川町轆轤石にある猪川小学校に入学。
父親が退職機を前借して実家を増改築しましたが、裏山が崩れ家屋は倒壊。
家族は全員無事でしたが、借金だけが残りました。
新沼謙治の中学校 生活を支えるために就職
新沼謙治さんの出身中学校は 大船渡市立第一中学校
岩手県大船渡市立根町宮田にある公立中学校。
中学1年生の時に近くの畑で鳩を拾ったことがきっかけで、レース鳩の飼育を始めました。
中学卒業後は自宅が土砂崩れで壊れたことから、長男として一家の暮らしを支えるため、高校には進学せずに地元の合板会社に就職。初任給は8800円でした。
合板会社時代には文化教養施設の勤労青少年ホームに通って、コーラス部で歌い、ギターやドラムも演奏。バドミントンも始めました。
その後、出稼ぎに出ていた叔父を頼って、栃木県宇都宮市で左官職人に弟子入りしました。
新沼謙治の学歴
演歌歌手デビューのきっかけ
宇都宮で左官職人をしていた時に開かれた、花見でのカラオケ大会で優勝。
すると、当時の人気番組『スター誕生』(日本テレビ)に出場を勧められ、19歳の時に出場。
自信はありましたが、結果は2次予選で落選。
その後も4回連続で2次予選で敗退し、5度目の挑戦で念願の決勝進出を果たしました。
決勝大会では五木ひろしさんの『哀恋記』を歌い見事に合格し、男性史上最多の17社のプロダクションからオファーを受けました。
「嫁に来ないか」の大ヒットで実家に嫁候補が殺到
1976年2月1日、19歳の時におもいで岬』で演歌歌手デビュー。
同年6月1日にリリースした2枚目のシングル『嫁に来ないか』が」ロングヒットし、1976年の第7回日本歌謡大賞・放送音楽新人賞を受賞し、第27回NHK紅白歌合戦にも初出場を果たしました。
『ファンが履歴書を持って、岩手の実家に押し掛けてきました。読むと、〈人生の目標:あなたの嫁になること〉と書いてあるんですよ(笑)。結果的には何百人も来たみたい。10人くらいの団体になると、ウチのばあさんが「泊まってけ~」と言って、みんな雑魚寝して朝食食べて帰ったらしいです。』
『嫁に来ないか』大ヒットで実家にはファンが履歴を持って何百人も嫁候補として来たといい、履歴書には「人生の目標:あなたの嫁になること」と書いてあったそうです。
結婚歴や妻、子供
新沼謙治さんは1986年、30歳の時に結婚。
妻は8歳年上で、元バドミントン選手の湯木博恵さん。
博恵さんは4度世界大会で優勝した名選手で、バドミントンが公開競技として行われた1972年ミュンヘンオリンピックでは3位になり、銅メダルを獲得しました。
馴れ初めは新沼さんが趣味としてやっていたバドミントンで、新沼さんがの地元・岩手県大船渡市を訪れた際、博恵さんにバドミントンの指導を受けたことが交際のきっかけだったといいます。
約5年間の交際期間を経て結婚しました。
子供は娘と息子の2人で、娘の文那さんは一時期は声優の仕事をしていたといわれ、2017年には結婚し孫が誕生。
息子の翔大さんは大学卒業後、介護の仕事をしているといいます。
妻の博恵さんは2011年9月に甲状腺癌のため、62歳で亡くなりました。