NHKのドラマ「男たちの旅路」、「黄金の日日」や映画「吉原炎上」で知られる俳優の根津甚八さん。
端正なルックスから若い女性の人気を集めましたが、2000年以降は病との闘いだったといい、2010年に惜しまれながら俳優業を引退。
今回は根津甚八の学歴(偏差値)、経歴、生い立ち、学生時代のエピソードなどを紹介します。
根津甚八の学歴
根津甚八の小学校
根津甚八さんの出身小学校は 不明
山梨県都留市の小学校に入学し、小学校3年生の時に一家で神奈川県川崎市に移りました。
川崎市の小学校では山梨弁を笑われて馴染むことはできなかったといいます。
当時は兄と一緒に時代劇映画をよく見ていたそうです。
根津甚八の中学校
根津甚八さんの出身中学校は 大田区立田園調布中学校
東京都大田区田園調布2丁目にある公立の中学校です。
出身者には元プロ野球選手の長嶋一茂さん、演出家の宮本亜門さんなどがいます。
両親が教育熱心で、川崎市から大田区の同中学校に越境入学しました。
中学時代には剣道部に所属していました。
根津甚八の高校
根津甚八さんの出身高校は 日本大学第三高校(偏差値66)
東京都町田市図師町にある男女共学の私立高校で、卒業生の約35~40%の生徒が系列の日本大学に進学しています。
野球の強豪校で多くの出身者にはプロ野球選手がいます。
高校時代も剣道部に所属、高校3年生の時の文化祭で担任の先生の勧めで自作自演の『二人芝居』を上演したことがきっかけで、演劇の魅力にとりつかれました。
根津甚八の大学
根津甚八さんの出身大学は 獨協大学 外国語学部フランス語学科(偏差値55)
埼玉県草加市学園町に本部を置く私立大学。
大学時代は演劇研究会に所属し芝居に夢中になりましたが、大学2年生の時に学生運動が始り、友人に「見るだけでもいいから」と誘われ見に行くと参加することになり、一時は芝居から離れ火炎瓶も投げていたといいます。
ある日、火炎瓶を落とした学生が火達磨になりましたが学生は対処法を知らず、群集に紛れ込んでいた私服警官が毛布をかけて火を消すのを見て、「自分は何をやっているんだろう」と思い、大学は2年で中退し、俳優の道に進みました。
根津甚八の経歴・生い立ち
本名は根津 透(ねづ とおる)。
父親は歯科医、男4人兄弟の三男。
子供の頃は読書が好きな大人しい子供でした。
大学中退後、1969年に唐十郎主宰の状況劇場に入団し、1974年に舞台「風の又三郎」で主演を務めるとその後は看板役者として活躍。
当時は、同じ状況劇場に所属していた小林薫さんと共にで端正スックスからアイドル的な人気でした。
1975年、「娘たちの四季」(フジテレビ)でドラマデビュー。1
1978年の大河ドラマ「黄金の日日」で石川五右衛門 役を演じ注目され、全国区の人気となり劇団に若い女性ファンが押し寄せるようになり、劇団に居づらくなり、1979年に劇団を退団。
1980年公開の黒沢明監督映画「影武者」では主要キャストを務め、1982年の主演映画「さらば愛しき大地」では
第6回日本アカデミー賞・優秀主演男優賞
第56回キネマ旬報賞・主演男優賞
を受賞しました。
上京劇場に所属していた女優と、20代前半から同棲を始め結婚しましたが離婚、1994年3月に15歳年下の仁香さんと再婚。
1996年に長男の甲斐太(かいと)さんが生まれ、その後に次男も誕生しています。
引退、晩年の病気と死因
2002年頃からは右目下直筋肥大という顔面の病気を患い、手術をして以降は後遺症に悩み、徐々に活動を縮小。
2004年には自動車を運転中に死亡事故を起こし、その後はしばらく活動を休止。
2009年には週刊誌でうつ病を患っていることが報道されました。
持病の椎間板ヘルニアも悪化したことがら、2010年9月、演出家や脚本家としての活動は行ないますが、俳優業から引退することを発表。
2015年には、石井隆監督の要望に応え、映画『GONIN サーガ』に出演し、一度限りの銀幕復帰を果たしました。
2016年12月29日に肺炎のため69歳で死去しました。