なぎら健壱の学歴・経歴・生い立ち〔大学 高校 中学校 小学校〕

学歴 なぎら健壱 歌手・ミュージシャン

東京都出身でシンガーソングライターのなぎら健壱さん。
放送禁止歌になったコミックソング『悲惨な戦い』で知られます。
この記事ではさんの学歴、経歴、生い立ちについて紹介しています。

なぎら健壱の学歴

なぎら健壱の学歴

小学校    葛飾区立末広小学校
中学校    葛飾区立金町中学校
高校     本所工業高校
専門学校   ヴィジュアルデザイン研究所

なぎら健壱の小学校

なぎら健壱さんの出身小学校は 葛飾区立末広小学校

東京都中央区東銀座生まれ。本名は柳楽 健一(なぎら けんいち)。
父親は宝石箱や貴金属の飾り台を作る職人、兄弟はなく一人っ子。

幼少期は松屋銀座の屋上から街を観るのが好きで、よく迷子になっていたといいます。

小学校は中央区立京橋小学校に入学し、小学3年生の時に葛飾区に移り、葛飾区立末広小学校に転校しました。

小学生の頃はから古本が好きで、よく古本屋に通って、江戸川乱歩『少年探偵団』などを購入していました。
貸本屋もありましたが、蔵書にしたかったそうです。

なぎら健壱の中学校

なぎら健壱さんの出身中学校は 葛飾区立金町中学校

中学時代は、文芸部と美術部に所属。

2年生の時にはアメリカの「カレッジ・フォーク」の影響でファークギターも始めました。

なぎら健壱の高校

なぎら健壱さんの出身高校は 本所工業高校 (偏差値-)

東京都葛飾区南水元四丁目にあった都立高校。
全日制は2007年に閉課程になり、統合されて葛飾総合高校(偏差値48)になっています。
出身者はに俳優の原田芳雄さんなどがいます。

高校時代にはフォークグループ『シャンゼリゼ』を結成。
アングラフォークに傾倒し、自分で作った歌を学校で披露していました。

高校3年生の時には、岐阜県の中津川で行われた第2回全日本フォークジャンボリーにアマチュアとして飛び入り参加し、レコードのライブ盤に収録されました

なぎら健壱の専門学校

なぎら健壱さんの出身専門学校は ヴィジュアルデザイン研究所 (偏差値-)

高校卒業後は、専門学校のヴィジアルデザイン研究所で、グラフィックデザインの勉強しながらフォーク活動も続け、1971年のの第3回全日本フォークジャンボリーに参加。

ステージでははアングラ・フォークの名作・加川良さんの『教訓I』を替え歌で歌い大ウケし、以降は替え歌の名人との異名を取り、翌年の1972年3月にアルバム『万年床』でデビューしました。

なぎら健壱の経歴

なぎら健壱のプロフィール

名前   なぎら健壱
生年月日 1952年4月16日
出身   東京都中央区銀座
身長   172cm
血液型  型
所属   ROOTS

1974年1月にファーストシングル『悲惨な戦い』をリリース。
この曲でなぎら健壱さんの名前は全国的に知られるようになりました。

歌詞は架空の大相撲の取組で起こったハプニングと、引き起こしたパニックのコミックソングでしたが、歌詞の内容に出てくる、取組中に力士の廻しが落ちて負ける「不浄負け」に、 日本相撲協会のクレームもあったとされ、要注意歌謡曲指定制度のAランク指定(放送禁止)の扱いになり、放送禁止は1988年まで続いたといいます。

1990年頃には一部はカットされならがらテレビで曲が披露され、1999年のフジテレビ『NONFIX 放送禁止歌』でやっとノーカットで放送されました。

1975年12月には454万枚という日本一の売り上げを記録した『およげ! たいやきくん』のB面『いっぽんでもニンジン』を歌いました。

『およげ! たいやきくん』を歌った子門真人さんもなぎらさんの買取契約だったため、売り上げに応じた歌唱印税は支払われず、子門さんは5万円、なぎらさんは3万円の支払いでした。

その後は、歌手としてライブ活動を続けながら、タレントとしても活動しています。

なぎら健壱の結婚歴や妻、子供

なぎら健壱さんの結婚歴は1度で、1977年頃に結婚。
妻は元デザイナーの同年齢の女性のようです。

子供は息子が1人で、1979年3月に詠人さんが誕生しています。

息子の柳楽詠人さんはヒップホップユニットのREMのボーカルであるeito.08として活動した後、なぎら健壱さんがプロデュースするもんじゃ焼き屋『下町もんじゃ焼 らくらく』を経営しているようです。

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