舞台「放浪記」のロングラン公演で知られ。国民栄誉賞も受賞した女優の森光子さん。
「放浪記」に初めて主演した時は41歳で、初主演でした。
この記事では森光子さんの学歴、経歴、生い立ちについて紹介しています。
森光子の学歴
森光子の小学校
森光子さんの出身小学校は 小学校
1920年5月9日生まれ、京都府京都市出身。本名は村上 美津(むらかみ みつ)。
母親は祇園の芸妓、父親は紡績会社社長の御曹司で、学生時代に母親を見初め恋仲になりたが、家族の反対で結婚することはできず、そのなかで森さんは誕生。
認知してはもらえず、母親の私生児として女でひとつで育てられ、母親の実家は割烹旅館「國の家」で、伯父と共に母親が経営していました。
兄弟は2人の兄と妹がいましたが、兄は2人とも若くして亡くなっているといいます。
父親は月に1度程度、家に来て膝の上でだっこしてもらったような覚えもあるものの、何を話したかは記憶はないそうです。
旅館を切り盛りする母親は忙しくしていましたが、仕事の合間には百人一首をして遊んでくれたといいます。
母親は森さんに旅館を継がせたいと思いから、6歳からは日本舞踊を習っていました。
森さんは幼少期から歌や踊りが好きで、7歳の時にはNHKのラジオ番組に出演しています。
旅館の常連客には歌舞伎役者の坂東妻三郎さんがいて、その颯爽とした姿に魅せられ芸能界に憧れを持つようにな、松竹少女歌劇団にも憧れていました。
森光子の中学校
森光子さんの出身中学校は 京都府立第一高等女学校
京都府京都市上京区にあった旧制女学校で、戦後の学制改革で高校になり、現在は鴨沂高校になっています。
現在の偏差値は50。出身者のは歌手の沢田研二さん。お笑い芸人(相席スタート)の山添寛さんなどがいます。
女学校に入学後、母親も父親も相次いで肺結核で他界。
1年生の夏休みに母親が亡くなったのを機に芸能の道に進むことを決意。女学校は1学期で退学しました。
退学後は従兄の映画俳優・嵐寛寿郎さんのプロダクションに所属し、1935年、14歳の時に映画『なりひら小僧 春霞八百八町』で子役デビューしました。
森光子の経歴 「放浪期」は2000回上演
1937年に嵐寛寿郎さんの事務所の閉鎖後は、後に大映映画になる「新興キネマ」に移籍し、娘役などで40本近くの映画出演。
1939年に「映画法」が制定され、映画出演が制限され始めたため、1941年、21歳の時に歌手を目指して上京。
人気歌手の前座歌手として日本軍慰問団に参加し、満州や東南アジアの島々を慰問しました。
終戦後はジャズ歌手として進駐軍キャンプへの巡業しながら俳優としても活動。
1949年には肺結核を患い、芸能活動を休止。京都山科で約2年半の闘病生活を送りました。
1951年に大阪で復帰しますが、ブランクから仕事はなく、仕事を探して知り合いを渡り歩いていたといいます。
1952年にNHK大阪放送局のラジオコメディー番組『エンタツちょびひげ漫遊記』に起用され、翌年には続編の『エンタツの名探偵』にも出演。
1955年、朝日放送のラジオ番組『漫才学校』にレギュラー出演すると、関西ラジオタレントとしての確固たる人気を獲得。ラジオへの出演と共に黎明期のテレビにも出演を開始しました。
大阪から東京へ拠点を移し、1960年に脇役で出演した芸術座の舞台『がしんたれ』の演技が高い評価を受け、1961年に芸術座出演4作目の『放浪記』で主役の林芙美子役に抜擢。
41歳の時で念願の初主演で、それまで脇役だった森さんが主演女優にとなるきっかけの作品になりました。
『放浪記』の初演は異例のロングランとなり、この年の芸術祭文部大臣賞を受賞。
10年後の1971年には再演が決定し、以降、森さんのライフワークとなり生涯で2017回上演されました。
2009年には国民栄誉賞を受賞しています。
「時間ですよ」が当たり役
ドラマでは日本を代表する「お母さん女優」としてその人気を不動のものとして、「日本のお母さん」と呼ばれ、1968年に起用された「タケヤ味噌」のCMは、途中に空白期間はあるものの2008年まで約40年の間キャラクターを務めました。
ドラマでは1970年から放送された主演ドラマ『時間ですよ』シリーズの下町の銭湯のおかみさん役が当たり役となり話題になりました。
1974年から1988年まではフジテレビのワイドショー番組『3時のあなた』で月曜日・火曜日のメイン司会を担当。
1986年には紅白歌合戦の審査員を務め、少年隊の東山紀之さんに「あなたのファンです」と発言したことがきっかけで親交が始り、その関係はたびたび話題になりました。
森光子の結婚歴や子供
森光子さんの結婚歴は2度。
ジャズ歌手として進駐軍キャンプを巡業していた1946年、26歳の時に日系アメリカ人2世で、アメリカ軍軍曹のリチャード・ウエムラさんにプロポーズされ結婚。
ウエムラさんがハワイに帰国後、森さん渡米する予定でしたが、芸能活動への未練から渡米はせずそのまま離婚したといいます。
その後、1959年、39歳の時に5歳年下のテレビプロデューサー・岡本愛彦さんと再婚。
岡本さんとはNHK大阪に出演していた時の仕事仲間で、その後岡本さんはラジオ東京(現・TBS)に移籍していました。
4年後の1963年に離婚。
子供はいませんでした。
森光子の晩年と死因
2010年2月に体調を崩し、『放浪記』の上演中止を発表。
以降は療養しながら、ジャニーズ関連の公演にも足を運マスコミの取材などには応じていましたが、2010年秋からはたびたび入院するようになりなったといいます。
2011年頃からは嚥下機能の低下から食べ物が喉を通らなくなり、同年4月には胃ろう造設手術に踏み切りました。
しかし、衰弱は進み一時退院と入院を繰り返し、2012年11月10日に肺炎による心不全のため92歳で亡くなりました。