『必殺仕事人』の飾り職人の秀役でブレイクした俳優の三田村邦彦さん。
高校は進学校でしたが、大学受験では白紙で提出したといいます。
この記事では三田村邦彦さんの学歴、経歴、生い立ちについて紹介しています。
三田村邦彦の学歴
三田村邦彦の小学校
三田村邦彦さんの出身小学校は 新発田市立猿橋小学校
新潟県新発田市生まれ。実家は400年、15代続く地主で、曾祖父は日本で最も長い歴史をもつ第四銀行(新潟)の創立者という裕福な家で育ち、兄弟のひとりひとりにお手伝いさんがついていたといい、父親と話すと時には正座で、食事では父親が箸をつけるまでは食べられないという厳しい家庭でした。
幼稚園の時に、芝居『桃太郎』に出演したことがきっかけで役者に興味を持つようになったといいます。
三田村邦彦の中学校
三田村邦彦さんの出身中学校は 新発田市立猿橋中学校
中学時代は兄に半ば無理やりに卓球部に入部させられまたといいます。
三田村さんは小学校の時に転校して来た三つ編みの女の子に惹かれていましたが、卓球部にその子も入部していて、その子に卓球で勝負を挑みましたが撃沈しました。
家庭が厳しかったことから「俳優になりたい」とはとても言い出せず、中学2年生の時には、どうやって東京に行って俳優になるかを考え、シナリオを作っていたといいます。
三田村邦彦の高校
三田村邦彦さんの出身高校は 新発田高校 (偏差値61~64)
新潟県新発田市豊町三丁目にある男女共学の県立高校。
設置学科は普通科、理数科。
出身者にはサザンオールスターズのベースの関口和之さんなどがいます。
高校入学後は、中学時代に考えた俳優になる方法を実行。
2年生の時に「大学の下見に行く」と両親に嘘をつき、東京で劇団を見て歩きどの劇団に入るか目星をつけ、大学受験の時には白紙の答案を出して、わざと不合格になりました。
両親には「進学率の高い東京の予備校へ行きたい」と時間をかけて説得し、高校と卒業と同時に上京。
予備校に入学しましたが、1日も通わずに建設現場などでアルバイトをしながら、劇団員になることを目指しました。
三田村邦彦の経歴
上京後は『文学座』の入団オーディションを受けましたが2年連続で落ち、劇団青俳養成所を経て20歳の時に『劇団青俳』に入団することができました。
当時は家賃5000円、3畳1間の生活でしたが周りがみんなそうだったことから、不安も感じなかったといいます。
1979年3月公開の映画『限りなく透明に近いブルー』で主演デビュー。
村上龍さんが芥川賞を受賞した作品で、主演でのオファーでしたが、原作を読んで数ページしか読まずに捨ててしまったほど作品が合わなかったそうで、オファーも当初は断りました。
すると、原作者の村上龍さんが納得いかず、直接会いたいと連絡をもらい、会って本を捨てたことを含めて正直に話すと、村上さんは「俺とお前は真逆だよな」といい、三田村さんに合わせて台本を書き変えてくれたそうです。
デビューした同年に時代劇ドラマ『必殺仕事人』(テレビ朝日)の飾り職人の秀 役で出演しブレイク。
1982年には刑事ドラマ『太陽にほえろ!』(日本テレビ)のジプシー刑事役で出演し人気を集めあました。
当初、『必殺仕事人』の出演は殺し屋の役が嫌で、2クールの契約通りに降板を希望していましたが、ディレクターに説得されて出演を延長。
1981年の『新・必殺仕事人』では最終回で、壮絶な死を遂げる予定でしたが、ファンから助命嘆願が数多く寄せられたため出演を続投することになり、1983年の『必殺仕事人IV』まで出演し、『太陽にほえろ』の出演期間は短縮されたといいます。
1986年には三田村さんが演じる「飾り職人の秀」を主演にした、スピンオフドラマの『必殺まっしぐら!』が放送されました。
歌手活動も行っており、1980年4月に自身が作詞をした『いま走れ!いま生きる!』でデビュー。
2021年3月までで17枚のシングルをリリースしています。
三田村邦彦の結婚歴や妻、子供
三田村邦彦さんには2度の結婚歴があり、最初の結婚は1980年でした。
妻は5歳年上で女優の中山麻麻理さん。
映画『限りなく透明に近いブルー』での共演が馴れ初めでした。
1981年に長男、1982年に次男、1988年に三男が誕生しましたが、1999年に離婚。
長男は三田村瞬の名前で、三男は中山麻聖の名前で俳優をしています。
再婚したのは2010年5月、56歳の時でした。
再婚相手は元大阪府のテレビ番組制作会社に勤務していた京都府出身の26歳年下の女性。
関西のローカル番組で出会い、5年の遠距離恋愛を経て結婚しました。
2015年3月には第4子となる娘が誕生しています。