映画、ドラマ、舞台など幅広いジャンルで活躍した女優の南田洋子さん。
晩年は認知症を発症しました。
この記事では女優の南田洋子さんの学歴、経歴、生い立ちについて紹介します。
南田洋子の学歴
南田洋子の小学校
南田洋子さんの出身小学校は 赤羽国民学校
東京市芝区三田出身。出生名は北田 洋子(きただ ようこ)。
父親は米穀商・薪炭商を経営、母親は日本舞踊の師匠。兄と弟がいる3人きょうだい。
小学校は赤羽国民学校(現・北区立赤羽小学校)に通っていましたが、戦時中は栃木県の塩原温泉に疎開しました。
南田洋子の中学校・高校
南田洋子さんの出身中学校、高校は 土浦第一高等女学校
終戦後は実家が空襲で焼けたため茨城県土浦市に移り、土浦第一高等女学校に入学。
旧制高等女学校は2年の『下等』と3年の『上等』の5年制で、現在の中学と高校を兼ねていました。
土浦第一高等女学校は、現在のつくば国際大学高校。 茨城県土浦市真鍋一丁目にある男女共学の私立高校で、偏差値は40。
女学校時代は両親と共に、行商や露天商なども経験しました。
当時は建築関係の仕事に就きたいと思ってたといいます。
南田洋子の専門学校
南田洋子さんの出身専門学校は 文化学院
女学校卒業後は、上京し文化学院に進学。
東京都墨田区両国二丁目にあった、美術、文芸、音楽、演劇・声優、建築などの課程があった専門学校で、2018年に閉校になっています。
南田さんは文化学院で建築を学びながら、歌舞伎座に通い詰めていると、目を留めた支配人に初代・水谷八重子さんを紹介され、付き人として弟子入りしました。
文化学院在学中の1951年に、アルバイトのつもりで大映5期ニューフェイスを受けると合格。
1952年に文化学院を卒業し、大映に入社。
同期には若尾文子さんがいました。
南田洋子の経歴
1952年、映画『美女と盗賊』の端役で女優デビューしましたが、その後もいい役は付かず、本名の『北田』が寒そうなので、芸名を『南田』に改名。
翌年の1953年に若尾文子さんと共演し、人の財布から盗んだお金のために売春する女学生を演じた映画『十代の性典』が大ヒット。
人気から映画はシリーズ化され、一躍に人気女優となりました。
1955年、大映から日活に移籍。翌年の1956年に映画『太陽の季節』で長門裕之さんと共に主演を務め、大ヒットし日活の看板スターとして活躍。
1963年には映画『サムライの子』で、
第14回ブルーリボン賞・助演女優賞
を受賞。
1960年代半ばからはテレビにも活動の場を広げ、1970年のNHK連続テレビ小説『虹』ではヒロインを演じました。
南田洋子の夫や子供
南田洋子さんは1961年3月に、1歳年下の俳優・長門裕之さんと結婚。
映画『太陽の季節』での共演がきっかけで交際をスタートさせ、約2年の同棲を経て結婚しました。
おしどり夫婦として知られ、1969年4月から1981年9月まで夫婦で『ミュージックフェア』(フジテレビ)の司会を務めました。
2人に子供はいませんでした。
南田洋子の死因と晩年
2009年10月17日に自宅で倒れ病院に入院し、危篤状況が続き、意識の戻らないまま10月21日に76歳で死去。
死因はクモ膜下出血でした。
南田洋子さんは2004年頃から認知症を発症。専門医によりアルツハイマー病との診断が下され、その後、セリフが覚えられないほどになり、2006年にひっそりと芸能界を引退。
その後、週刊誌に南田さんの病状が報道されると、2008年に長門さんが『徹子の部屋』に出演した際に、南田さんが認知症であることを初めて明かし、同年11月には長門さんと南田さんの闘病の模様が『報道発 ドキュメンタリ宣言』で放送され大きな反響を呼びました。
遺作は2007年8月18にから公開された映画『22才の別れ Lycoris 葉見ず花見ず物語』。
ドラマでの遺作は2006年1月13日に日本テレビで放送された『戦国自衛隊・関ヶ原の戦い』でした。
南田さんが亡くなった約1年半後の、た2011年5月21日に夫の長門さんの脳出血でこの世を去りました。