ハードボイルド小説、歴史小説で知られる北方謙三さん。
高校時代に結核を患い、それがきっかけで大学時代に小説を書き始めました。
この記事では北方謙三さんの学歴、経歴、生い立ちや、小説家になったきっかけ、結婚や妻などについて紹介しています。
Contents
北方謙三の経歴・プロフィール
北方謙三の小学校 父親は船長
北方謙三さんの出身小学校は 川崎市立中原小学校
佐賀県唐津市出身。実家は祖父の代から続く製菓会社を経営していました。
父親は外国航路の船長で1年のうち10ヶ月は家におらず、父親の船が横浜港に帰って来ると家族で横浜に行き、父親と一緒に過ごしていたといいます。
父親は本屋に行くときは一緒に連れて行ってくれ、絵本を買ってくれたそうです。
幼少期は唐津市で過ごし、小学校は唐津市の小学校に入学。
小学5年生の時に神奈川県川崎市中原区に移り住み、川崎市立中原小学校に転校しました。
北方謙三の中学校・高校 肺結核に感染
北方謙三さんの出身中学校・高校は 芝中学校・芝高校
東京タワーのすぐ近くの東京都港区芝公園3丁目にある仏教系の私立男子校。
1887年(明治20年)に設置された浄土宗学東京支校が前身の学校で、戦前から名門校として知られます。
中学校の偏差値は65、完全中高一貫制のため高校の生徒募集はありませんが、毎年10人以上の東京大学に合格者を出すレベルの学校です。
出身者には俳優の矢柴俊博さんなどがいます。
中学、高校時代は柔道部に所属。柔道に熱中し高校2年生の時には二段を取得しました。
しかし、大学受験を控えた高校3年生の時に肺結核と診断され、健康診断書には「就学不可」と書かれ大学受験ができなくなり、当時は死も意識したといいます。
療養をしながら浪人生活を送りましたが、半年経っても病状は良くはならず、自身で健康診断書を「異常なし」と書き換えて受験し、大学に合格しました。
北方謙三の大学 結核がきっかけで小説家デビュー
北方謙三さんの出身大学は 中央大学 法学部(偏差値65)
東京都八王子市東中野に本部がある私立大学。
法学部の出身者には俳優の古谷一行さんなどがいます。
大学時代は学生運動に参加。結核は化学療法を続けて3年半ほどで治ったといいます。
小説家に結核持ちが多かったことから、小説家としてなら、やっていけると考えるようにり、大学2年生の頃に小説を書き始めました。
大学在学中の1970年に純文学作品『明るい街へ』を同人誌に発表。
同作が雑誌『新潮』編集者の目に留まり1970年3月号に掲載され、大学生作家としてデビューしました。
北方謙三の学歴
長い下積みから路線変更で人気作家に
デビュー時は『新潮』編集長には「天才」と賞賛されましたが、その後、10年で100本書きましたが、雑誌に掲載されたのは3本のみで掲載率は低く、長い下積み生活を送りました。
その後、集英社の若手編集者に「暗い話を書いている場合じゃない」と路線転換を勧められ、1981年に長編ハードボイルド小説『弔鐘はるかなり』を発表し、純文学からエンターテイメント小説に転向。
その後、『逃がれの街』、『眠りなき夜』『さらば、荒野』『檻』などのヒット作を次々に生み出し、「ハードボイルド小説家」として一躍人気作家になりました。
『眠りなき夜』では第4回吉川英治文学新人賞、第1回日本冒険小説協会大賞を受賞。
『逃がれの街』は1983年に水谷豊さん主演で映画化されました。
その後も、1985年『友よ、静かに瞑れ』、1987年『黒いドレスの女』など次々と映画化されました。
1989年には初の歴史小説として南北朝時代を舞台とした『武王の門』を発表。
1996年には全13巻の大長編『三国志』を刊行。
1999年には『水滸伝』が『小説すばる』で連載開始されました。
2000年から2023年まで、直木三十五賞の選考委員を務め、吉川英治文学賞、江戸川乱歩賞、小説すばる新人賞の選考委員なども務めました。
結婚や妻、子供
北方さんの妻は元高校教師の女性。
結婚したのは26歳。まだ売れる前でしたが、妻が教師をしていたため、妻を養わなければと無理に力む必要はないと思っていましたが、結婚と同時に妻は「専業主婦やりますから」と教師を退職したといいます。
下積み時代には半月は肉体労働をやって、残りの半月で書くという生活を送っていたと話し、妻には月に食べられるだけのお金は渡すことはできませんでしたが、文句を言われたことはなかったそうです。
売れてからは全収入を妻に渡し、そこからお小遣いをもらっていると話しています。
子供は娘が2人で、長女は空手、次女は剣道をやっていて、次女は剣道三段だといいます。