時代劇『座頭市』シリーズなどで知され、「勝新」愛称し親しまれた勝新太郎さん。
ジェームス・ディーンを紹介されて出会ったことで俳優になりました。
この記事では俳優の勝新太郎さんの学歴、経歴、生い立ちについて紹介しています。
Contents
勝新太郎の学歴
勝新太郎の小学校
勝新太郎さんの出身小学校は 新宿区立愛日小学
1931年11月29日、東京市深川区(現・東京都江東区)生まれ。本名は奥村 利夫(おくむら としお)。長唄三味線方の父親・杵屋勝東治さん、母親・八重子さんの次男として誕生。
2歳年上の兄は仁侠映画などで活躍した俳優の若山富三郎さん。
小学校は東京都新宿区北町にある公立の新宿区立愛日小学校に入学。当時は国民学校でした、。
出身者には文豪の夏目漱石さんがいます。
父親は17歳で師匠となり、力強いバチさばき、男っぷりのよさから「長唄のプリンス」と呼ばれファンが多く、勝さんは7歳から父親に三味線と長唄と習っていました。
勝さんは父親のことが大好きで後に、
『俺が子供の頃、尊敬する人物を言えば、一がお父ちゃんで、二は天皇陛下だった。それぐらい、お父ちゃんに惚れてるし、ファンなんだ』
と語っています。
勝新太郎の中学校
勝新太郎さんの出身中学校は 旧制法政中学校
東京都三鷹市牟礼四丁目にある男女共学の私立学校。
1936年に旧制法政中学校して創立。1947年の学制改革で法政第一高校になり、2007年に法政大学高校に校名が改称されています。現在の偏差値は68。
出身者にはキックボクサーの沢村忠さん、タレントのせんだみつおさんなどがいます。
中学校は中退。父親と同じ道へ進み、10代の頃には長唄三味線の師匠・二代目 杵屋勝丸となり、深川の芸者を教えていました。
勝新太郎の経歴 ジェームス・ディーンとの出会い
1954年、父親が参加する「アヅマカブキ」のアメリカ巡業に三味線弾きとして同行し、現地で立ち寄った20世紀フォックス撮影所で・ジェームス・ディーンを紹介されました。
ジェームス・ディーンさんは同い年で、当時からスター。
しかし、ボサボサ頭でヨレヨレのシャツを着ていた彼の姿に衝撃を受け、「これなら自分もスターになれるかもしれない」と俳優になることを決意。
父親が歌舞伎座で長唄三味線を弾いていたのでついていき、舞台袖から、当時の名優の芝居を観ていたことから、子供の頃から芝居が好きでした。
1954年、23歳の時に大映京都撮影所と契約。同年の市川雷蔵主演映画『花の白虎隊』でデビューしました。
座頭市でブレイク
大映は二枚目として市川雷蔵に次ぐ役者として育てようと、勝さんに主要な役を与え続け、月1作のペースで主演映画にも出演していましたが、デビュー以降6年が過ぎても代表作を呼べる作品には出会えませんでした。
転機となったのは1960年の主演映画『不知火検校』でした。
主人公の「市」は盲目に生まれ、按摩として身を立てながら、泥棒、詐欺、強請、姦淫、殺人と、ありとあらゆる悪事を働き、盲人組織における最高位の「検校」となるというストーリー。
野心的な悪人が主人公の同映画は公開されるとヒットし、勝さんはそれまでの俳優としての評価を一新させ、1962年の『座頭市物語』が大ヒットし、30歳で一躍ブレイク。
市川雷蔵さんと共に大映に2枚看板として「カツライス」と称されました。
プロダクション設立や不祥事
1967年に勝プロダクションを設立し、自ら映画製作を開始し、『燃えつきた地図』、『人斬り』などを製作・主演。
テレビドラマ製作にも進出し、1974年から1975年にかけてはドラマ『座頭市物語』を製作しました。
活動は軌道に乗っていましたが、1978年にはアヘンの不法所持で書類送検。1979年には映画『影武者』の主役に抜擢されましたが、監督の黒沢明さんと演技で衝突し降板するなどのトラブルが続き、1980年に製作したテレビドラマ『警視-K』(日本テレビ)では完全主義の勝さんの製作方針から予算オーバー。
作品自体も不振で途中打ち切りとなるなど、赤字を抱え、1981年に12億の負債を残し「勝プロダクション」は倒産。
しかし、翌年の1982年には妻の中村玉緒さんを社長とした「勝プロモーション」を設立しています。
1990年1月16日にはアメリカ合衆国ハワイ州のホノルル国際空港で下着にマリファナとコカインを入れていたとして現行犯逮。
勝さんは逮捕後の記者会見で、
『今後は同様の事件を起こさないよう、もうパンツをはかないようにする』
『なぜ、私どもの手にコカインがあったのか知りたい。』
などととぼけ通し、入手経路については最後まで話しませんでした。
翌年には日本でも麻薬及び向精神薬取締法違反の容疑で逮捕され、懲役2年6か月執行猶予4年の有罪判決を受け、以降は俳優活動の場を映像から、舞台に移しました。
勝新太郎の結婚歴や妻、子供
勝新太郎さんが、8歳年下の女優の中村玉緒さんと結婚したのは1962年3月7日、30歳の時。
2人の馴れ初めは映画での共演でした。
勝さんと玉緒さんは1955年の映画『かんかん虫は唄う』で初共演し、5年後の1960年に勝さんの出世作『不知火検校』で再び共演。
同作で2人は惹かれあい交際をスタートさせました。
後に中村さんは勝さんについて、
『とにかくシャイな人でした』
と延べ、シャイすぎてプロポーズをマネージャーに頼むほどだったいいます。
子供は娘と息子の2人で、長女の奥村真粧美さんが1962年12月28日、長男の鴈龍太郎さんが1964年8月9日に誕生。
2人とも元俳優で、奥村真粧美さんは引退、鴈龍太郎さんは舞台などで活動していましたが、2019年11月1日に急性心不全で亡くなっています。
勝新太郎の晩年と死因
1996年7月に下咽頭癌が発覚。治療は手術は行わず、抗癌剤と放射線で行いましたが、入院中も外出を繰り返して寿司や酒を楽しみ、タバコも吸ってると報じられました。
発病から4ヵ月後に行った記者会見では「タバコはやめた」と言いながら、タバコそ吸う様子を見せました。
しかし、後に発病後は禁煙し、会見での喫煙は煙を肺までは入れず、ふかしているだけのパフォーマンスだったと中村玉緒さんは振り返っています。
1997年6月21日、下咽頭癌で死去。65歳でした。
亡くなる1年前の1996年には大阪新歌舞伎座に舞台『夫婦善哉』で中村玉緒さんと夫婦役を演じました。
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