ベテラン歌手で、ジブリ映画「紅の豚」ではヒロインの声優を務め、主題歌も歌った加藤登紀子さん。
中学の時には数学で0点を取ったこともありながら、東京大学に現役で合格しています。
そんな加藤登紀子さんの学歴、経歴、生い立ちについて紹介します。
加藤登紀子の学歴
加藤登紀子の小学校
加藤登紀子さんの出身小学校は 京都市立下賀茂小学校
父親が南満州鉄道に勤務していたことから、満州国ハルピン市で誕生、兄と姉がいる3人兄弟の末っ子。
終戦後、2歳8ヶ月で両親の実家のある京都に引き揚げ、父親は帰国後、キングレコードに入社、母親は洋服の仕立ての仕事を始めました。
幼少期は泣き虫でいつも母親のそばにくっついているような内気な子供で、運動ができなく、体育が最も苦手だったといいます。
小学2年生からバレエを習い、音楽の成績が悪かったことから3年生の時には歌を習いました。
加藤登紀子の中学校
加藤登紀子さんの出身中学校は 世田谷区立桜木中学校
京都市の中学校に入学しましたが、1年生の夏に父親の転勤で東京都世田谷区に移り、世田谷区立桜木中学校に転校しました。
東京に移った後は京都と東京のテンポの違いにカルチャーショックを受け、京都の中学校と東京の中学校では勉強の進度が違ったことから9月の学力テストでは、得意だった数学で初めての0点をとり、しばららくは学校に通うことも嫌になったといいます。
その後、京都大学に落ちて浪人中だった6歳年上の兄の隣で一生懸命勉強し、成績は上昇。
高校はトップの成績で合格しました。
兄はその後、一橋大学に合格しています。
加藤登紀子の高校
加藤登紀子さんの出身高校は 駒場高校(偏差値68)
東京都目黒区大橋二丁目にある都立高校。
出身者には吉永小百合さん、お笑いコンビ・しずるの村上純さんなどがいます。
高校時代はアナウンス部に所属、吉永小百合さんは部の1年後輩で、すでに芸能界デビューをして人気女優でしたが、加藤登紀子さんの企画したアナウンス講習をきちんと受けてくれたと話しています。
吉永小百合さんはその後、精華学園女子高に転校しています。
高校在学中に学生運動が始り、一橋大学に進学した兄が学生運動家で、自宅が運動家の仲間のたまり場になっていた影響で、加藤登紀子さんも学生運動に参加。
当時は高校生でも参加することが多かったそうです。
加藤登紀子の大学
加藤登紀子さんの出身大学は 東京大学文学部西洋史学科(偏差値72)
高校はトップで合格したこともあり、1年生の時は面談で「東大に進学したい」と担任に話していましたが、部活や学生運動、文化祭の演劇活動などで忙しくなって成績は下がり2年生の面談では「このままでは東大は無理」と担任に言われ「高校時代にやりたいことがある。受験で邪魔されたくない」と反論。
その後、父親に「女は東大に行くもんじゃない」東大を目指すことに反対されたことから、闘争心に火が付き、3年生の秋から本格的に東大受験の勉強を始めました。
受験勉強を始めたのが遅かったことから、東大模擬試験は難しすぎてひどい結果で半ば諦めていましたが、本番の試験では学校の先生が直前にかけたヤマが当たったこともあり、解ける問題が多く合格したといいます。
大学入学後は演劇研究会に所属。
学生運動にも参加し、大学は6年かけて卒業しました。
加藤登紀子の経歴・生い立ち
高校、大学と演劇に熱中し女優になることの考えましたが、フランスのシャンソン歌手、エディット・ピアフと出合い音楽にも傾倒。
そんな時に音楽関係の仕事をしていた父親にシャンソン・コンクール出場を提案され、大学在学中の1965年に「第2回日本アマチュアシャンソンコンクール」に出場し優勝。
歌手デビューが決まり、翌年の1966年5月5日に「誰も誰も知らない」で歌手デビュー。
デビュー当時はアイドル歌手のような扱いだったそうです。
同年8月5日の2枚目のシングル「赤い風船」で「第8回日本レコード大賞」新人賞を受賞。
1969年9月15日の「ひとり寝の子守唄」で第11回日本レコード大賞歌唱賞受賞。
1971年12月1日の「知床旅情」で、2度目の第13回日本レコード大賞歌唱賞受賞し、同年末には第22回NHK紅白歌合戦に初出場を果たしました。
1992年にはスタジオジブリの映画「紅の豚」ではヒロインのマダム・ジーナ(Gina)の声優を務め、主題歌「さくらんぼの実る頃」、エンディング・テーマ「時には昔の話を」も歌いました。
加藤登紀子は獄中結婚
夫は学生運動指導者だった藤本敏夫さん。
出会いは学生運動で、東大の卒業式ボイコットの座り込みにすでに歌手としてデビューしていた加藤登紀子さんが参加することを聞いた、同志社大学出身で運動のリーダーだった藤井さんが、加藤登紀子さんを訪ね「学生の集会で歌ってほしい」と頼まれ、加藤登紀子さんが「歌手を政治に利用するのは良くない」と断ると「そうですね」藤本さはあっさり同意。
自分の立場を理解してくれて、その潔い態度に好感を持ち、その後、藤本さんから「会いたい」と連絡をもらい会うと、お互いに惹かれあっていたこともあり、すぐに交際がスタート。
1969年には内ゲバと言われた仲間同士や同じような集団の間で暴力的な抗争に反対し、学生運動から離れましたが、1972年4月に学生運動時の公務執行妨害・凶器準備集合などで実刑判決を受け収監。
その時に、加藤登紀子さんはすでに長女を妊娠ており、同年5月に獄中結婚をしました。
1972年には長女が誕生し、1975年には次女、1980年には三女が誕生しました。
夫の藤本さんは1974年に出所後、1981年に千葉県鴨川市に自然生態農場「鴨川自然王国」を設立、1999年には農林水産省関東農政局の諮問委員に就任。
その後、2000年に「自然王国」ブランドによる新しいライフスタイルを提案する「株式会社 ナチュラルコミュニケーションズ」を設立。
しかし、2002年7月に肝臓がんのために58歳で亡くなりました。
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