サイトアイコン 学歴・経歴report

岩城滉一の学歴・経歴・生い立ち〔大学 高校 中学校 小学校〕

学歴 岩城滉一

バイクチーム「クールス」のサブリーダーを務め、「キャロル」の解散コンサートでは親衛隊を務めた俳優の岩城滉一さん。
この記事では岩城滉一さんの学歴、経歴、生い立ちや、デビューしたきっかけ、結婚や妻、子供などについて紹介しています。

岩城滉一の経歴・プロフィール

岩城滉一のプロフィール

名前   岩城滉一
生年月日 1951年3月21日
出身   東京都
身長   175cm
血液型  A型
所属   サンミュージック

岩城滉一の小学校

岩城滉一さんの出身小学校は 中野区立本郷小学校

東京都中野区出身。姉、弟、妹がいる4人きょうだい。
元在日韓国人で民族名は李 光一(イ・グァンイル)このことは公言しており、2017年4月5日に日本に気化しました。
父親は鉄工所を経営。父親はとても怖く、生活は父親を中心にまわっていたといいます。

小学校は東京都中野区本町4丁目にある本郷小学校に入学。
子供の頃には父親の鉄工所に出入りしていた、ヤクザ風の男に憧れていたそうです。

岩城滉一の中学校

岩城滉一さんの出身中学校は 中野区立第二中学校

東京都中野区本町5丁目にある公立中学校。
歌手の五輪真弓さんは中学校の同級生で、クラスも一緒で席も横だったそうです。

『でもちょっと苦手で…暗くて』

五輪さんのお兄さんとは仲が良かったそうです。

父親には、「女に惚れるな、惚れさせろ」「酒は飲んでも、飲まれるな」と言われて育ったといいます。

岩城滉一の高校

岩城滉一さんの出身高校は 日本大学鶴ヶ丘高校 (偏差値64~68)

東京都杉並区和泉2丁目にある男女共学で、日本大学付属の私立高校。
出身者には俳優の綿引勝彦さん、渡辺篤史さん、内田理央さんなどがいます。
高校時代には親に内緒でバイクの免許を取得し、バイクにハマりました。
よく他校の生徒とケンカをしていたといいます。

岩城滉一の大学

岩城滉一さんの出身大学は 帝京大学 経済学部 (偏差値40)

東京都板橋区加賀2丁目に本部がある私立大学。
出身者にはお笑いコンビ・カミナリの石田たくみさん、声優の戸松遥さんなどがいます。
働くことが好きで、大学時代には水商売やバイクで原稿を運ぶアルバイトをしていました。

大学は中退していまます。

岩城滉一の学歴

岩城滉一の学歴

小学校  中野区立本郷小学校
中学校  中野区立第二中学校
高校   日本大学鶴ヶ丘高校
大学   帝京大学(中退)

バイクチーム「クールス」を結成

大学中退後、バイク好きの仲間と東京都内をバイクで乗り回していたある日、飲食店で岩城さんのバイクに興味を持った舘ひろしさんに「あのバイク、きみたちの?」と声をかけられ、バイクの話題で意気投合し、原宿店表参道を拠点としたバイクチーム「クールス」を結成。
リーダーは舘さんが務め、岩城さんはサブリーダーを務めました。
当時、舘さんはバイクの免許は持っておらず、岩城さんの勧めで、岩城さんのバイクに二人乗りして教習所に通ったそうです。

チーム結成当時は21人で、メンバーは全員リーゼント、で黒の革ジャン、黒か青のジーンズ、黒のバイクで統一さ。
女性ファッション誌などのモデルを務めるようになると、近県からファンが集まるようになりました。
1975年4月13日には矢沢永吉さんに話しを持ちかけられ、矢沢さんがボーカルを務める「キャロル」の解散コンサートで親衛隊を務めました。
その後、舘さんはレコード会社に説得され、 バンド「クールズ」を結成し、1975年9月に「紫のハイウェイ」でデビュー。
岩城さんはすでに東映と俳優として契約を交わしていたために参加はしませんでした。

スカウトされて俳優デビュ-

クールス時代に岩城さんがハーレーダビッドソンに乗った姿が『平凡パンチ』と『週刊プレイボーイ』に掲載。
その写真を見た東映に誘われ出演契約を結び、1975年、高倉健主演映画『新幹線大爆破』で俳優デビュー。
同年の『爆発! 暴走族』で映画初主演を務めました。
1977年7月29日に覚せい剤取締法および銃砲刀剣類所持等取締法違反(拳銃所持)で逮捕。
出演予定だったドラマ『あにき』(TBS)は降板しましたが、判決から5ヶ月後に映画『俺達に墓はない』にて復帰。
その後の週刊誌のインタビューでは「シャブを打って何が悪い」と反省するそぶりを見せませでしたが、アニキと慕っていた松田優作らの支えで次第に更生。
1981年からは倉本聰脚本のテレビドラマ『北の国から』(フジテレビ)などの作品に出演しました。

レースに参戦

30歳で普通自動車免許取得後、1980年からカーレース参戦を開始し、全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権、全日本F3選手権、全日本ツーリングカー選手権などに参戦。

バブル景気全盛期の1990年と1991年には国内最高峰のフォーミュラカーレースである全日本F3000選手権に参戦しましたが、当時は参加台数が多かったこともあり、予選通過を果たせたのは1戦だけでした。

1998年にはフォーミュラ・ニッポン(旧F3000選手権)でビーブライズ・レーシングの監督を務め、その後はオートバイレースでは鈴鹿8時間耐久ロードレースに『TeamIWAKI』監督として参戦。
2007年には鈴鹿8時間耐久レースで名誉顧問を務めました。

結婚や妻、子供

岩城滉一さんは1975年、24歳の時に、4歳年下のモデル結城アンナさんと結婚。
結城さんは日本人の父親と、スウェーデン人の母親のハーフ。
スウェーデン生まれで、1965年に初来日し、1971年から日本に定住し、15歳からモデルとして活動していました。
岩城さんと結城さんが出会ったのは結城さんが高校生、岩城さんが大学生の時でした。
岩城さんのグループと結城さのグループが一緒に遊ぶようになり、5年ほどはグループで遊んでいましたが、その後、交際に発展。
芸能界のおしどり夫婦として知られていましたが、長く事実婚で子供が大学生のなった時に入籍したことを明かしています。
籍を入れたのは「現実的なメリット」を考えてのことだったといいます。

子供は娘が1人で、1976年にヘンリッタさんが誕生しました。
ヘンリッタさんは結婚しアメリカに住んでいるようです。

モバイルバージョンを終了