津軽海峡冬景色」や「天城越え」などのヒット曲で知られる演歌歌手の石川さゆりさん。
中学3年生の時にアイドル歌手としてデビューしました。
この記事では石川さゆりさんの学歴、経歴、生い立ちについて紹介しています。
Contents
石川さゆりの経歴・プロフィール
石川さゆりの小学校 熊本から横浜に転校
石川さゆりさんの出身小学校は 飽田村立飽田東小学校(現・熊本市立)
熊本県飽託郡飽田村(現・熊本市南区)出身。出生名は石川 絹代(いしかわ きぬよ)。9歳年下の弟がいる長女。
父親は熊本の市電の運転士で、超亭主関白の九州男児、母親は幼稚園の保育士で栄養士の資格も持っていたので、幼稚園の給食の献立の担当もしていました。
小学校の入学する頃に、母親は保育士を辞めて祖父から乾物も生鮮食品も扱う食料品店を受け継ぎ、朝から夜まで忙しく働き「いつ寝るんだろう」と思っていたといいます。
小学校は熊本県熊本市南区砂原町にある飽田東小学校に入学。
小学3年生の時に地元で開催された島倉千代子さんのショーを見て感動し、いろんな色のライトが飛び交う、これまでに自分が見たことのない世界に憧れました。
小学5年生の時に市電が廃止されたため、父親はバス会社に転職。
その仕事の関係で神奈川県横浜市内に転居し、小学校は港北区鳥山町にある横浜市立城郷小学校に転校しました。
石川さゆりの中学校 友達の代役でアイドルデビュー
石川さゆりさんの出身中学校は 横浜市立城郷中学校
神奈川県横浜市港北区小机町にある公立中学校。
中学に入ると、歌手への憧れから母親に「歌を習いたい」と伝えると、「塾に行くお金はあるけど、歌のお稽古は自分でアルバイトをしなさい」と言われ牛乳配達のアルバイトを開始。
毎朝5時に起きて牛乳を配達し、土日にレッスンを受けていました。
1972年、中学3年生の夏休みに友人が『ちびっ子歌謡大会』に応募し、返事のハガキが来てオーディションを受けることになりましたが、友人はその日に祖母の家に行くことになって行けなくなったことから石川さんはそのハガキをもらい、名前を書き換えてオーディションにエントリーすると合格。
出場した『ちびっ子歌謡大会』ではグランドチャンピオンを獲得し、ホリプロにスカウトされて芸能界入り。
1972年10月にドラマ『光る海』(フジテレビ)で女優デビューし、翌年の1973年3月25日に『かくれんぼ』でアイドル歌手デビューを果たしました。
石川さゆりの高校 「3人娘」から外される
石川さゆりさんの出身高校は 堀越高校 芸能活動コース(偏差値38)
東京都中野区中央二丁目にある男女共学の私立高校。
芸能活動コースは現在のトレイトコース。
高校入学直前に歌手デビューし、その前にドラマに出演していたことからオリコンチャートは60位に入りましたが以降は続かず、森昌子さん、山口百恵さんと共に「ホリプロ3人娘」として売り出されましたが、桜田淳子さんが入ると「花の中三トリオ」となり、いつのまにか石川さんは「3人娘」から抜けていたといいます。
オーディションに合格しないと歌番組にも出られない時代で、高校時代は辛い時期だったといいます。
石川さゆりの学歴
「津軽海峡・冬景色」が大ヒット
高校卒業前の1977年1月1日に発売した15枚目の『津軽海峡・冬景色』が大ヒット。
同曲で石川さんはアイドル歌手から本格的に演歌歌手に転向しました。
週間オリコンチャートは6位にランクインし、年末にはの第19回日本レコード大賞歌唱賞、77FNS歌謡祭グランプリ・最優秀歌唱賞などの音楽賞を獲得。
第28回NHK紅白歌合戦にも初出場を果たしました。
1977年の『能登半島』、『暖流』も続けてヒット。
1986年7月には『天城越え』が大ヒットしました。
紅白歌合戦には2023年までで46回出場。
46回の出場の内『津軽海峡・冬景色』で13回、『天城越え』で13回出場し、この2曲で26回出場しています。
結婚歴や夫、子供
石川さゆりさんは1981年、23歳の時に、7歳年上でホリプロ社員からルポラーターに転身した馬場憲治さんをと結婚。
馬場さんは森昌子さんの現場マネージャーで、石川さんの宣伝も担当していました。
1984年2月には娘の佐保里さんが誕生しています。
結婚後は馬場さんの実家の敷地に両親と同居の兄夫婦と子供3人、弟夫婦と子供1人と生活していましたが、結婚8年目の1989年に離婚。
一部の報道では「嫁姑問題」があったとされています。
石川さんは離婚後、再婚はしていません。