「クリスマスキャロルの頃には」や「ドラマチック・レイン」などのヒット曲で知られる歌手の稲垣潤一さん。
この記事では稲垣潤一さんの学歴、経歴、生い立ちについて紹介しています。
Contents
稲垣潤一の経歴
稲垣潤一の小学校 エレキギターのサウンドに憧れる
稲垣潤一さんの出身小学校は 仙台市立榴岡小学校
宮城県仙台市宮城野区出身。実家は仙台市内の榴ヶ岡駅にある商店街で洋品店を経営していました。
父親は東京都板橋区、母親は兵庫県神戸市出身で、終戦後に父親が満州からは母親の疎開先だった宮城県に引き上げ、そこで両親は出会ったそうです。
両親は洋楽好きで、夫婦で社交ダンスを踊っていたといい、その影響で稲垣潤一さんも幼少期から音楽が好きになり、小学生の時にはビートルズに出会い、エレキギターのサウンドに憧れて、ホウキでギターの真似したりしていました。
小学生の頃はおしゃべりで、授業中におしゃべりをしすぎて、先生に机ごと廊下に出されたことがあったといいます。
毎週に日曜日には映画好きの父親と一緒に映画館で映画を観て、2本立てをハシゴして4本観るもあったそうです。
稲垣潤一の中学校 バンドを結成しドラムを担当
稲垣潤一さんの出身中学校は 仙台市立東華中学校
小学生の時にホウキなどでギターを真似ていましたがしっくりこず、中学時代に8ビートを教わってドラムを叩いたとことすんなりと出来たことから、ドラムを始めました。
中学1年生の時にバンドを結成し、ドラムとボーカルを担当。初めて人前で演奏した時からドラムを叩きながら歌うというスタイルでした。
最初に買ったドラムは3万円で、3000円の10回払いで買ったといいます。
稲垣潤一の高校 就職した会社を1日で退職
稲垣潤一さんの出身高校は 宮城県工業高校 (偏差値48~54)
宮城県仙台市青葉区米ヶ袋三丁目にある男女共学の公立高校。
高校時代に本格的にバンド活動を始め、バンド『フェイセス』を結成。
高校時代はバンド三昧の日々を送り、高校卒業後は就職しましたが、出社初日に仙台で有名だったバンド「ロングイヤーズアフター」のドラマーが抜けて後任になってほしいと言われ、会社は1日で退職しました。
稲垣潤一の学歴
ドラマティック・レインがヒット
バンド「ロングイヤーズアフター」は東京に進出しましたが解散。
その後は仙台に戻り、後輩に誘われてバンド活動を再開し、ちり紙交換や花屋のアルバイトをしながらクラブやキャバレー、米軍キャンプ、ビアガーデンなどで演奏していました。
そんな活動を9年間続け、その甘い歌声は話題となり、稲垣さんの評判を聞きつけた音楽関係者から仙台市内のレストランでスカウト。
1982年1月に『雨のリグレット』でソロ歌手デビュー。28歳の時でした。
1982年10月の3枚目のシングル『ドラマティック・レイン』がオリコンチャート8位となり初のトップ10入りし、一躍人気歌手となりました。
1986年3月の6枚目のアルバム『REALISTIC』が初の1位となり、1989年4月の『HEART & SOUL』まで4枚連続1位を獲得。
1992年10月に発売した27枚目のシングル『クリスマスキャロルの頃には』は、TBSテレビ系ドラマ『ホームワーク』主題歌となり、シングルで初の1位を獲得。累計約170万枚を売り上げました。
稲垣潤一の妻・子供
稲垣潤一さんには2度の結婚歴があります。
最初の結婚の時期は不明ですが、妻は仙台時代から下積みを支えた女性。
しかし、2006年に死別、結婚生活は30年以上だったそうです。
再婚したのは2009年で55歳の時、相手は10歳年下の一般女性で、妻は初婚だったといいます。
子供がいるかどうかは公表されていません。