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本並健治の学歴・経歴・生い立ち〔大学 高校 中学校 小学校〕

学歴 本並健治

元プロサッカー選手で、元日本代表のゴーキーパーだった本並健治さん。
妻は元サッカー女子に日本代表の丸山桂里奈さんで、再婚です。
この記事では本並健治さんの学歴、経歴、生い立ちについて紹介しています。

本並健治の経歴

本並健治のプロフィール

名前   本並健治
生年月日 1964年6月23日
出身   大阪府枚方市
身長   186cm
血液型  B型
所属   ホリプロ

本並健治の小学校 野球チームで4番

本並健治さんの出身小学校は 大阪市立依羅小学校

1964年、大阪府枚方市生まれ。
父親は自称・南海ホークスに所属していたプロ野球選手でしたが、母親に聞くと「そんなわけないわよ!」と否定したといいます。
ハーフのような彫りの深い顔立ちですが、両親ともに純日本人。
現役時代の愛称は「浪速のイタリアーノ」でしたが、イタリアというより中東顔だそうで、中東に行った時には現地の人に間違われたそうです。

活発な幼少期を過ごし、小学1年生からは野球チームに所属。ポジションはセカンドとショート以外はやったといい、小学生の時から身体も大きく、打順は4番も務めたといいます。

本並健治の中学校 中学3年でサッカー部に入部

本並健治さんの出身中学校は 大阪市立我孫子中学校

中学時代もリトルリーグに所属していましたが、野球は上下関係も厳しく、監督も厳しかったこともあり、野球に飽きてしまったといいます。中学2年生の時に誘われてサッカーをしてみると自由で楽しくて、中学3年生の時にサッカー部に入部しサッカーを始めました。

始めたの遅かったため、フィールドプレーヤーとしては、他の選手に後れを取っていると悟り、ポジションは自身でゴールキーパーを選択したといいます。

チームは1、2回戦で負けるぐらいのチームでしたが、本並さんはすぐに頭角を現し、大阪選抜に選ばれるほどの選手に成長し、関西で2位になりました。

本並健治の高校 国体に出場

本並健治さんの出身高校は 清風高校 (偏差値61~71)

大阪府大阪市天王寺区石ヶ辻町にある私立の男子校。
進学校ですがサッカーやテニスなどスポーツも強豪で、特に体操では何人ものオリンピック選手を輩出しています。
出身者にはロサンゼルス五輪体操代表の具志堅幸司さん、バルセロナ五輪体操代表の池谷直樹さんや俳優の大谷亮平さんなどのがいます。

高校時代はインターハイ、国体に出場し、中学時代に続き、大阪選抜にも選出され活躍しました。

本並健治の大学 インカレ3連覇

本並健治さんの出身大学は 大阪商業大学 商経学部 経済学科(偏差値43)

大阪府東大阪市御厨栄町にある私立大学。
商経学部は現在の経済学部。
大阪商業大学はサッカーが強く、高校時代から練習に参加し、チームの雰囲気も知っていたことから入学したといいます。

大学入学後は1年生からレギュラーを務め、1年生から3年生でに全日本大学サッカー選手権大会3連覇、インカレ3連覇、総理大臣杯全日本大学サッカートーナメント2連覇などの輝かしい実績を上げました。
また、ユニバーシアード代表にも選出され、A代表の候補者にまでなりました。

本並健治の学歴

本並健治の学歴

小学校  大阪市立依羅小学校
中学校  大阪市立我孫子中学校
高校   清風高校
大学   大阪商業大学

腎臓破裂から脅威の復帰

大学卒業後、1987年にガンバ大阪の前身である松下電器産業サッカー部に入団。
Jリーグが発足する6年前で、社会人として午前中は仕事、午後はサッカーという日々で、5年間は会社員でもありました。
本並さんは堅実で、将来がどうなるかわからないので、お金はしっかり貯めていたといいます。

入団当初は慶越雄二選手の控えでしたが、慶越選手の移籍から正GKの座を獲得。
1993年のJリーグ発足後は攻撃的な姿勢が注目を浴び、人気選手の1人となりました。当時、ガンバ大阪は弱小チームで守備の弱さから本並さんの出番は多かったといいます。
同年7月7日のサンフレッチェ広島戦で、後半終了直前のコーナーキックをキャッチした時に田口禎則選手と激しく接触。
後ろから膝が入った形で、肋骨は折れていましたが、メンバー交代枠を全部使っていたこともあり、試合には最後まで出場。試合はガンバ大阪が延長開始直後にVゴールを決められ敗北。
試合後の診断では腎臓が破裂しており、

『仮に延長戦が続いていたら助からなかっただろう』

と言われたほどの大怪我で、手術では腎臓の4分の1を摘出。
しかし、驚異的な回復を見せ7ヶ月後の翌1994年サントリーシリーズには再び正GKとして試合に出場し、同年に初めて日本代表にも選出されました。

ガンバ大阪ではチームの顔として活躍しましたが、1996年の中盤以降は正GKの座を岡中勇人選手に明け渡し出場機会が激減。
1997年にはヴェルディ川崎の誘いに応え1997年シーズン途中にレンタル移籍し、1998年は完全移籍しました。
同年は菊池新吉選手の控えでしたが、翌年の1999には菊池選手が腰痛を再発させたことからレギュラーに定着し活躍。

2001年に37歳で引退しました。
引退後はサッカー中継で解説やリポーターなどを担当しながら、一時、京都産業大学や東海大学付属仰星高校のサッカー部でコーチを務めていました。
2005年にJFA公認S級指導者ライセンスを取得し、2012年8月になでしこリーグ・スペランツァFC大阪高槻の監督に就任。
半年の契約でしたが、当時、成績が低迷していたチームをなでしこリーグ1部に残留させ、シーズン終了後には3年契約を結び、その後、契約期間を1年延長し2016年まで務めました。

結婚歴や妻の丸山桂里奈の馴れ初めや子供

本並健治さんの結婚歴は2度。
最初の結婚は1991年で27歳の時で、妻は美千代さんという名前の女性のようです。
当時はJリーグ発足前で社会人の時でした。
子供は息子が2人で、1993年に長男、1995年に次男が誕生しています。
離婚の時期は不明。

本並健治さんと丸山桂里奈さんが結婚したのは2020年9月。
結婚時、本並健治さんは56歳、丸山桂里奈さんは19歳年下で37歳でした。
出会いは2012年で、同年に本並さんが監督に就任したなでしこリーグのスペランツァFC大阪高槻に、丸山桂里奈さんも移籍して来たことで出会いました。

『もともと知っている人で、そのときはそんなに顔の形とか見てなかったんですが、こんなにはっきりしている顔ってあるんだなと。人間離れしていてかっこいいなと惹かれていき、気持ちというより体からという感じでした』

馴れ初めは丸山さんが本並さんを恋愛相手として意識したことだといい、元々、本並さんのことは人として好きでしたが、2020年になって男性として好きになり、丸山さんから食事に誘うなど猛アタック。
交際がスタートすると本並さんも結婚を意識し、本並さんからのプロポーズで、交際期間約5ヶ月で結婚。
2023年2月には長女となる娘が誕生しました。

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