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萩本欽一の学歴・経歴・生い立ち〔大学 高校 中学校 小学校〕

学歴 萩本欽一

お笑いコンビ・コント55号で絶大な人気を獲得し、その後、テレビで司会者として活躍したは萩本欽一さん。
大将の愛称で親しまれました。
この記事では萩本欽一さんの学歴、経歴、生い立ちについて紹介しています。

萩本欽一の学歴

萩本欽一の学歴

小学校  さいたま市立高砂小学校
中学校  台東区立御徒町中学校
高校   駒込高校
大学   駒沢大学

萩本欽一の小学校

萩本欽一さんの出身小学校は さいたま市立高砂小学校

1941年、東京府東京市下谷区(現・東京都台東区)生まれ。兄が2人、姉が2人、弟が1人いる6人兄弟の三男。
父親は元カメラ店勤務で、戦時中に借金して集めたカメラの部品でカメラを製造し進駐軍に売る仕事を始めると大成功。
長屋で生活していましたが、埼玉県浦和市(現・さいたま市)に家を建て、4歳の時に移りました。

小学校では学級委員を務めましたが、強い生徒の後ろに隠れたり、女の子と遊ぶような子供だったといいます。

生活は裕福でしたが、小学校5年生の時に父親の会社が倒産。実家には連日借金取りが押し寄せました。

その後は、台東区に戻り、小学校は台東区立西町小学校に転校しました。

萩本欽一の中学校

萩本欽一さんの出身中学校は 台東区立御徒町中学校

2002年に台東中学校と統合し、現在は台東区立御徒町台東中学校になっています。

中学時代は野球部所属、ライトで7番でした。

生活は貧しく、借金取りに頭を下げている母親の姿を目撃したことから、中学生の時に大学に進学することは諦めていたといいます。

喜劇映画を見たことで、貧しい生活から抜け出したいと思い、中学卒業と同時に喜劇役者の大宮敏充の元へ弟子入りを請いましたが、

『高校は出ておけよ』

と断られ、高校への進学を決めました。

萩本欽一の高校

萩本欽一さんの出身高校は 駒込高校 (偏差値60~66)

東京都文京区千駄木にある男女共学の私立高校。
出身者には劇作家の唐十郎さん、俳優の江口洋介さんなどがいます。

高校時代も生活は極貧で、学校には弁当も持っていけず昼食は抜き、革靴を履く規則がありましたが革靴が買えず先生に何度も注意され、その後、新聞配達などのアルバイトを始め、革靴を買ったといいます。

高校時代も野球部に入りましたが、アルバイトを掛け持ちしていたため、あまり参加できませんでした。

高校卒業後は、浅草の東洋劇場に入りコメディアン修行を始めました。

萩本欽一の大学

萩本欽一さんの出身大学は 駒沢大学 仏教学部(偏差値42)

東京都世田谷区駒沢に本部がる私立大学。
萩本さんが大学に合格したのは、2015年、73歳の時。社会人入試制度で入学しました。

認知症対策で勉強を始め、「成果が見えた方がうれしい」と大学受験を決め、興味を持った仏教を学ぼうと仏教学部を受験したそうです。

1日10数時間の猛勉強の結果、英語と小論文の受験科目に合格しました。

大学には休まず通い、合間に入るお笑いの仕事が「邪魔」と思っていましたが、

『80歳になるともう動けないから、あと2年、お笑いを一生懸命やろう』

との考えに変わり、大学は4年通いましたが自主退学しています。

萩本欽一の経歴

萩本欽一のプロフィール

名前   萩本欽一
生年月日 1941年5月7日
出身   東京都台東区
身長   164cm
血液型  A型
所属   浅井企画

高校卒卒業後、東洋劇場に入団し、研究生としてコメディアンの修業を始め、当初はあがり症で苦労しましたが、誰も居ない劇場で早朝に大声を出す練習するなどして克服。

系列の列の浅草フランス座へ出向し、ストリップの幕間コントに出演していた時、専属コメディアンだった坂上二郎さん(当時は安藤ロール)に出会いました。
当初の印象は「一緒にやったら食われるから嫌い」だったといいます。

その後、東洋劇場を辞め、浅草松竹演芸場で「劇団浅草新喜劇」を旗揚げ。

タレント活動も始め、公開コメディ番組ジンタカ・パンチ!のコマーシャルに起用されましたが、収録で19回ものNGを連発してしまい降板を余儀なくされ、一度はテレビタレントを諦め、舞台役者で生きていくことを決意したといいます。

コント55号結成後

考えたコント「机」売り込もうとしていた時、たまたま坂上二郎さんから電話が掛かってきて会うことになり、コントのあらすじを話すと、

『そのコントは俺と欽ちゃんで演じた方がいいのでは』

と提案され一回の舞台契約で、1966年にコンビをを結成。

前座で演じたコント「机」は当初反応はよくありませんでしたが、3日目に役を入れ替えて演じたところ好評で、5日目から前座ではなく正式に出演。
この時に支配人からコンビ名を『コント55号』と名付けられました。

コント55号の名声は瞬く間に広がり、松竹演芸場や日劇に出演。
テレビ番組『大正テレビ寄席』(テレビ朝日)に出演したことがきっかけで、全国的な知名度になり、1968年7月から『コント55号の世界は笑う』(フジテレビ)が放送され人気を獲得。

1969年の『コント55号!裏番組をブッ飛ばせ!!』(日本テレビ)の野球拳で大ブレイクしましたが、子供に見せたくない俗悪番組としてPTAや主婦からは投書なども多かったといいます。

1971年、萩本さんが『スター誕生!』(日本テレビ)の初代司会者として単独での活動を始め、以降は個々の活動がメインとなりました。

以降は司会者として活躍し、1976年から放送されが『欽ちゃんのどこまでやるの!』(テレビ朝日)は最高視聴率42%を記録。
1981年には『欽ドン!良い子悪い子普通の子』(フジテレビ)、1982年からは『欽ちゃんの週刊欽曜日』(TBS)が始り、どの番組を高視聴率を獲得。この3つの番組の合計視聴率から『100%男』の異名を取り、これらの番組から人気芸能人が誕生し、「欽ちゃんファミリー」と言われました。

茨城ゴールデンゴールズを結成

2005年には野球クラブチーム『茨城ゴールデンゴールズ』を結成し、初代監督に就任。

チームは萩本さんの独自のマイクパフォーマンスや、女子選手・元プロ野球選手・お笑い芸人などを加入させるなど、前例のないチーム作りを推進。茨城ゴールデンゴールズをアマチュア野球随一の人気チームへと成長させました。

2006年には山本圭一さん(極楽とんぼ)の淫行事件が発覚し、一度はチームの解散を決めましましたが、地元市民による存続署名活動や、各メディアのアンケートなどで存続要望が多かったことから解散を撤回。

2012年12月に監督を勇退し、後任に片岡安祐美さんを指名しました。

萩本欽一の妻や子供

萩本欽一さんは1976年、35歳の時に結婚。

妻は3歳年上で、東洋劇場の踊り子だった澄子さん。

澄子さんと出会った時、萩本さんは18歳で、澄子さんは舞台袖で、萩本さんのコントを楽しそうに見て、

『素質あるんだから、がんばってね。』

と、励ましてくれていたといいます。

交際を始め、同棲をスタートさせると、澄子さんが下積みを支えました。

しかし、萩本さんがコント55号で一世を風靡すると、澄子さんは姿を消したといいます。

どうにか探して、プロポーズすると

『芸能人の奥さんなんてなりたくない。いい迷惑よ』

と嫌がられたましたが、どうにか結婚してもらったと話しています。

澄子さんは2016年に肺がんが発覚。 抗がん剤や放射線治療で一時は進行が止まりましたが、その間に何度か転倒して骨折。

2020年8月に4度目の骨折で入院してからは、次第に弱っていったといい、同月の下旬に肺がんのため82歳で亡くなりました。

子供は息子が3人で、子供が小さかった頃は「家族を顧みない夫」と言われるの嫌で、日曜日は休みを取り、子供たちを遊びに連れて行ったいたといいます。

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