ガッツ石松の学歴・経歴・生い立ち〔中学校 小学校〕中学卒業後に上京しボクサーを目指す

学歴 ガッツ石松 スポーツ

ボクシングの元WBC世界ライト級王者で「ガッツポーズ」を世間に浸透させたことでも知られるガッツ石松さん。
この記事ではガッツ石松さんの学歴、経歴、生い立や、ボクサーになったきっかけ、妻、子供などについて紹介しています。

ガッツ石松の経歴・プロフィール

ガッツ石松のプロフィール

名前   ガッツ石松
生年月日 1949年6月5日
出身   栃木県
身長   172cm
血液型  O型
所属   ガッツ・エンタープライズ

ガッツ石松の小学校 生活は貧しく蛇も食べた

ガッツ石松さんの出身小学校は 栗野町立清洲第二小学校(現・鹿沼市立)

栃木県上都賀郡清洲村(現・鹿沼市)出身。本名は鈴木 有二(すずき ゆうじ)。
兄、姉、弟がいる4人兄弟の次男。父親は日雇いで工事現場や近所の農家の農作業を手伝いをし、母親も工事現場の作業員をしていました。
父親は病気がちで家にいることが多く、家計を支えたのは母親だったといいます。
生活は貧しく、物心ついた頃には近所の子供たちとの格差を感じていましたが、幼少期からガキ大将でケンカはとても強かったそうです。
食事も満足に食べることはできず、梅干しがあれば豪華なほうで、蛇やイナゴなど食べられるものは何でも食べたといいます。
小学校は栃木県鹿沼市北半田にある清洲第二小学校に入学。
小学校に入ると繁盛期には農家で子守のアルバイトや新聞配達をしていました。

ガッツ石松の中学校 家裁に送致され保護観察処分

ガッツ石松さんの出身中学校は 栗野町立清洲中学校

栃木県鹿沼市にあった公立中学校で、2003年に閉校になっています。
中学入学後に番長格の3年に呼び出され、凄まれましたが怯むことなく反撃。ボコボコにし2年生になった頃には学校に歯向かう者はいなくなっていたといいます。
周辺の中学校の生徒ともケンカ三昧で、束ねる番長になりましたが、2年生の夏に家庭裁判所に送致され少年院送りは免れましたが保護観察処分になり、父親が若い裁判官に頭を机にこすりつけて頭を下げる姿を見て更生。
校長に「更生の意志を示すためにも何か部活動をしなさい」と諭され、2年生から野球部に入部しました。
野球部では外野の控えでレギュラーになれず、出場は代打だったといいます。
家庭の事情で高校には進学せず、中学卒業後は上京しました。

ガッツ石松の学歴

ガッツ石松の学歴

小学校  栗野町立清洲第二小学校
中学校  栗野町立清洲中学校
高校   進学していません

プロボクサーになったきっかけ

中学時代に19歳で世界フライ級王者になったファイティング原田さんに憧れボクサーになることを決意。
大人たちの会話でファイトマネーが300万円だと聞き、当時の感覚で4000万~5000万円のと感じ驚愕したことがボクサーを目指そうと思ったきっかけだったといいます。
高校進学がかなわないと分かっていたことから、それが希望の光となり地方にはボクシングジムがない時代だったことから上京しました。
上京後は住み込みで五反田のネジ製造会社に就職。その後は職を転々としながらボクサーとして活動しました。

チャンピオンになるまで10敗以上

ヨネクラジムに入り、最初のプロテスト不合格を経て1966年12月11日に「鈴木石松」のリンネームで1回KO勝ちでプロデビュー。
「石松」は「死んでも直らないほどのおっちょこちょい」という森の石松が由来。
1969年に全日本ライト級新人王を獲得。
1970年1月25日、世界王座挑戦がほぼ決まっていた、東洋ライト級王者・ジャガー柿沢(中村)の前哨戦の相手に選出。
その試合で番狂わせの一方的な判定勝ちを収め。柿崎選手に代わって世界挑戦権を獲得しました。

1970年6月6日、パナマでWBA・WBC世界ライト級王座挑戦しましたが、イスマエル・ラグナ(パナマ)に13回TKO負けしチャンピオン獲得はならず。
1971年3月3日、日本ライト級王者に挑戦しましたが引分でタイトル奪取ならず。
1972年1月16日、東洋ライト級タイトルに挑戦し判定勝ちで王座奪取。
1973年9月8日、WBA世界ライト級王座挑戦しましたが、石の拳ロベルト・デュラン(パナマ)に 10回KO負け。
ガッツさんはランニングが嫌いで、サボることがよくあったため、ジム側が「ガッツのあるボクサーになってくれるように」とリングネームを「ガッツ石松」に改名しました。
世界戦で敗北はしましたが、「技術的にはそんなに劣っていない!自分のスタミナさえあれば勝てない相手ではない」と思ったといいます。

1974年4月11日、東京・日大講堂で、WBC世界ライト級王座挑戦。
相手のロドルフォ・ゴンザレス(メキシコ)は戦績59勝50KO5敗、ガッツさんは戦績は26勝14KO11敗6分であったため下馬評では「ガッツは99%勝てない」との予想でした。
しかし、毎回ほぼ互角の打ち合いが続き、8回に3度のダウンを奪い、8回KO勝ちでチャンピオンの座を獲得しました。
日本の世界チャンピオンでチャンピオンになる前に10敗以上しているのはガッツ石松さんだけだといいます。
王座を奪取した時にこぶしを高々と突き上げて喜びを爆発させた姿を新聞が「ガッツポーズ」と表現したことでそのポーズがガッツポーズと呼ばれるようになりました。

1974年9月12日、愛知県体育館でチュリー・ピネダ(メキシコ)を相手に引き分けて初防衛戦に勝利。
1974年11月28日、大阪府立体育会館で、王座を奪取したロドルフォ・ゴンザレスとリターンマッチで対戦し12回KO勝ちで2度目の防衛に成功。
1975年2月27日、東京体育館で、元WBA・WBC王者のケン・ブキャナン(イギリス )相手の防衛戦を行い3-0の判定勝ちで3度目の防衛に成功。
1975年6月5日、大阪の近大記念体育館で、前回引き分けているチュリー・ピネダと再戦し、3-0の判定勝ちで4度目の防衛に成功。
1975年12月4日、東京・日大講堂で、アルバロ・ロハス(コスタリカ)を苦戦の末に、14回に右アッパーの一撃で倒し5度目の防衛に成功。
1976年5月8日、6度目の防衛戦でエステバン・デ・ヘスス(プエルトリコ)に15回判定で敗れ王座から陥落。

ライト級の体重維持がしくなったため、ジュニアウェルター級に転向し1、977年4月2日、WBC世界ジュニアウェルター級王座に挑戦するが、センサク・ムアンスリン(タイ)に6回KO負け。
1978年、後の日本スーパーウェルター級王者・新井容日(大星)に判定負け。
同年に29歳で引退しました。

タレント、俳優に転身したきっかけ

ガッツさんは東映の任侠映画が大好きで、高倉健さんと菅原文太さんの大ファン。
ボクシング修行時代の1969年には役者にもなりたいと東映東京撮影所に売り込みに行ったこともあったそうです
俳優の転向したのは「少年時代から憧れだった高倉健と共演したかっただけ」だったといいます。

周囲からは「ボクシングで有名になったからといって、俳優などできるはずがない」と反対されましたが、俳優転向後、1989年のハリウッド映画『ブラック・レイン』のヤクザ・片山役で高倉さんとの共演を果たしました。
テレビドラマでは『北の国から』や『おしん』など、多数出演。
天然キャラとして多数のバラエティでも活躍しました。

結婚や妻、子供

ガッツ石松さんは1968年、19歳の時に結婚。
妻はデパートのネクタイ売り場に勤務してた女性でした。
当時は職を転々としながらボクシングをやっている頃で、ネクタイ売り場で妻を見たガッツさんが「(女優の)梶芽衣子がいる!」と一目惚れ。猛アタックの末に交際、結婚に至りました。

子供は娘が1人と息子が2人の3人。
1972年に誕生した長女の鈴木佑季さんはタレントとして活動していました。
長男はガッツさんの仕事を手伝っているといい、次男の鈴木有太さんはでシンガーソングライターをしています。

コメント

タイトルとURLをコピーしました