時代劇『必殺シリーズ』や、刑事ドラマ『はぐれ刑事純情派』で長く主演を務めていた俳優の藤田まことさん。
若い頃はコメディアンとして活躍しました。
この記事では藤田まことさんの学歴、経歴、生い立ちについて紹介します。
藤田まことの学歴
藤田まことの小学校
藤田まことさんの出身小学校は 京都市立格致小学校
東京府東京市豊島区生まれ(現・東京都豊島区池袋)。本名は原田 眞(はらだ まこと)。
父親は無声映画時代のスターだった藤間林太郎さん、母親は向島の元芸妓、6歳年上の姉と4歳年上の兄ががいます。
母親は5歳の時に他界。
東京の小学校に入学し、3年生の時に大阪府枚方市に引っ越しましたが、近くに兵器工場があったため空襲に遭う危険のあると、京都府京都市に移り、京都市立格致小学校に転校しました。
10歳の時に父親が再婚した継母とはそりが合わず、反抗し決して「お母さん」とは呼ばなかったといいます。
藤田まことの中学校
藤田まことさんの出身中学校は 京都市立郁文中学校
同中学校は、2007年4月に統合され京都市立下京中学校が開校されました。
14歳のと時にかつて住んでいた大阪府枚方市の長屋の大家に養子に出されましたが、志願兵として兵役についてた兄が戦死したため、家族のもとに戻されました。
戻った時に姉は肺を患っており、間もなく死去しています。
中学時代には、京都市内のキャバレーなどで進駐軍兵士の靴磨きや連絡係をして、金を稼いいでいました。
藤田まことの高校
藤田まことさんの出身高校は 堀川高校(偏差値66~73)
京都府京都市中京区にある男女共学の京都市立高校で、京都府内ではトップクラスの進学校。
出身者にはバイオリニストの葉加瀬太郎さんなどがいます。
高校生の頃には父親の藤間林太郎さんの巡業に裏方として参加、17歳の時に歌謡ショーの一座の公演で「旅笠道中」を歌い初舞台を踏み、その後、舞台俳優としても活動するようになり、高校は2年で中退しました。
この頃に芸名を「藤田まこと」と名乗るようになりました。
藤田まことの経歴
19歳の頃に歌手を目指して上京し、歌手のディック・ミネさんのカバン持ちをしたがら、前座歌手として活動。
巡業の司会者が病気いなったことがきっかけで、司会者も務めるようになりました。
その後、漫才師の中田ダイマル・ラケットの助言を受けて司会の仕事やめ、俳優として『ダイマル・ラケット劇団』に参加。
当時の大阪は舞台俳優とコメディアンの区別は特になく、「役者志望の見習いコメディアン」として活動していたといいます。
1957年、大阪テレビのコメディー時代劇『ダイラケのびっくり捕物帖』でテレビ初出演。
コメディ番組『笑いの王国』で様々な人物の扮装をしながら生放送CMに出演すると人気を集め、街で声をかけられるようになりました。
1962年、時代劇コメディー『てなもんや三度笠』(朝日放送)で初めて主役に抜擢され、「主役の役者が他の番組で脇役を演じては恰好がつかない」と、脇役で6本あったレギュラー番組を降板することを要求され、藤田まことさんは「一軍に上がるチャンスかもしれん」と条件を受諾。
すると、同番組のスポンサーであった前田製菓のCMフレーズ『俺がこんなに強いのも、当たり前田のクラッカー!』や、財津一郎さんら個性的なレギュラー陣のギャグも大当たりして人気番組となり、最高視聴率は関西地区では64.8%を記録しました。
しかし、番組末期には3%~4%台にまで低迷し藤田さんは「視聴率という、実体のないものの怖さ」を実感したといます。
1973年、『必殺シリーズ』の『必殺仕置人』に中村主水 役で出演。
当初の主演は念仏の鉄 役の山崎努さんでしたが、徐々に中村主水を中心に物語が展開するようになり人気が爆発、劇中のセリフ『あんたはもう死んでいるぜ』は流行語になりました。
1988年から刑事ドラマ『はぐれ刑事純情派』シリーズの放映が開始。
同ドラマも人気となり、18年間放送され、全444話制作されました。
藤田まことの妻と子供
藤田まことさんは1959年、26歳の時に、一般女性の幸枝さんと結婚。
当時はまだテレビに出始めた頃で結婚資金がなく、新居を建てるにあたり、新居だけでなくと自らを担保に入れて購入、結婚式と披露宴の費用は式、披露宴を収めた映像を1年間式場のコマーシャルに使用させることと引き換えに、無料で行うことに成功したそうです。
結婚後、妻の幸枝さんはバブル期に大阪の北新地などで飲食店やブティックなどを手広く経営、バブル崩壊とともに経営が行き詰まり30億円の借金を抱えましたが、10年で返済しています。
子供は、長女、次女、長男の3人に恵まれました。
孫娘は花リナの名前で、歌手活動をしています。
藤田まことの死因と晩年
2008年4月に検査で食道がんが発覚。
6月の舞台公演を降板、入院治療を行い10月に復帰し、『必殺仕事人2009』に中村主水 役で出演。
2009年10月からの『JIN-仁-』(TBS)にも新門辰五郎役で出演予定でしたが、慢性閉塞性肺疾患で降板。
その後はリハビリを続けていましたが、2010年2月16日、箕面市の自宅で夕食後の家族だんらん中に突然吐血。
大阪大学医学部附属病院に搬送されましたが、翌日の17日に大動脈瘤破裂のため、76歳で死去しました。