おひょいさんのニックネームで親しまれた俳優でタレントの藤村俊二さん。
元は振付師でテレビ番組『8時だヨ!全員集合』のオープニングの踊りを振り付けも担当しました。
この記事では藤村俊二さんの学歴、経歴、生い立ちについて紹介しています。
藤村俊二の学歴
藤村俊二の小学校・中学校
藤村俊二さんの出身小学校、中学校は 暁星小学校・暁星中学校
神奈川県鎌倉市生まれ。父親はレジャー・外食事業、不動産事業などを行うスバル興業の社長。
6人兄弟の2番目、父親は厳しい人でしたが、母親はおおらかなで、兄弟で障子を破るくらいケンカをしても声を荒げて怒るようなことはなく、ケンカの頃合を見計らって「疲れたでしょう、お茶にしましょう」などと言う人だったといいます。
裕福な家庭に育ち、兄弟ひとりに1人のお手伝いさんがついていました。
活発な子供で、幼稚園は元気が良すぎて退園になったそうです。
小学校は東京都千代田区富士見一丁目にあるカトリック系私立学校の暁星小学校に入学、中学校も暁星中学校(偏差値69)に進学しました。
小学生の時には箱根に集団疎開。中学時時代には演劇部に所属していました。
藤村俊二の高校
藤村俊二さんの出身高校は 暁星高校 (偏差値-)
高校も系列校の暁星高校に進学。
出身者には歌舞伎役者の坂東彌十郎さん、香川照之さんなどがいます。
完全中高一貫制のため、高校の生徒募集はなく偏差値はありません。
高校時代にはダンスホールに通い、芸者遊びもしていましたが、東京では父親にバレるので、芸者遊びをする時は伊東ま行っていたといいます。
しかし、ある日、芸者遊びでお金がなくなって自宅に帰ると、父親が事業に失敗し自宅は人手に渡っていたそうです。
藤村俊二の大学
藤村俊二さんの出身大学は 早稲田大学 第一文学部演劇学科(偏差値68)
高校卒業後は、演出家を目指して早稲田大学の演劇科に進学しましたが、授業では演劇理論や、歴史ばかりでつまらなかったことから、大学は1年で退学。
大学を辞めた後は、ちょうど開校した東宝芸能学校の舞踊科に1期生として入学しました。
藤村俊二の経歴
東宝芸能学校を卒業後は、日劇ダンシングチームに12期生として入ました。
1960年、25歳の時にはフランスやイギリスを巡り、本場の芸のレベルを目にして驚き、ダンサーの道を断念、振付師に転向。
ドリフターズの大人気番組『8時だョ! 全員集合』(TBS)のオープニングの「エンヤーコラヤ ドッコイジャンジャン コーラヤ」の部分や、『レナウン』のCM「イエイエ」の振付も担当しました。
振付師でしたが、エキストラとしてテレビ出演を頼まれることも多く、カメラの向くと映るのが嫌で「ひょい」と逃げていたのいが「おヒョイ」のあだ名の由来で、後輩からは「おヒョイさん」と呼ばれていました。
1970年以降は俳優としても活動、タレントとしてバラエティ番組では飄々としたキャラクターで人気を集めました。
56歳の時に胃癌で胃を全摘出してからは、毛染めをやめ、白髪と白い口ひげがトレードマークとなり、俳優では老け役として知的な老紳士・好々爺役などを多く演じました。
芸能界で活動しながら、東京・南青山でバー「O’hyoi’s」(オヒョイズ)も経営していました。
藤村俊二の妻や子供
藤村俊二さんは1961年9月に、元日劇ダンサーの女性と結婚。
息子と娘に恵まれましたが、1995年に離婚。
翌年の1996年、61歳の時に28歳年下の番組レポーターなどを務めていた女性と再婚。
しかし、2013年12月に離婚しています。
長男は藤村さんの個人事務所の代表を務めていました。
藤村俊二の死因と晩年
2015年10月に小脳出血で倒れ、『ぶらり途中下車の旅』のナレーションを降板。
その後は治療をしていましたが、1年以上の入院後、2017年1月25日に心不全のため静岡県御殿場市内の病院で死去。82歳でした。