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藤真利子の学歴・経歴・生い立ち〔大学 高校 中学校 小学校〕

学歴 藤真利子

ドラマ、映画で活躍で活躍し、日本アカデミー賞・優秀助演女優賞を獲得した経験もある女優の藤真利子さん。
父親は作家で、母親の介護を10年以上していました。
この記事ではさんの学歴、経歴、生い立ちについて紹介しています。

藤真利子の学歴

藤真利子の学歴

小学校  不明
中学校  不明
高校   不二聖心女子学院高校
大学   聖心女子大学

藤真利子の小学校・中学校

藤真利子さんの出身小学校・中学校は 不明

1955年6月18日、東京都杉並区阿佐ヶ谷生まれ。本名は藤原 真理(ふじわら まり)。
父親は作家の藤原審爾さん、母親の名前は静枝さん。
藤原審爾さんは1952年に年『罪な女』他で第27回直木賞を受賞し、純文学からサスペンス、恋愛ものやハードボイルドなど、幅広いジャンルの作品を発表し、「小説の名人」の異名をとった作家でした。

幼少期は自宅に客人が多く、麻雀のジャラジャラという音と客人たちの笑い声を聞いて育ちましたが、父親は母親以外に女性を作り、4歳にの時に母親と一緒に家を出て別居、
以降は母親が小料理屋を経営し、女手ひとつで育てられました。

父親は女性と暮らす家を母親と藤さんを連れて行き、生活を見せた上で「帰れ」と突き放したこもあったといい、帰りに、母親が傷つき涙を流す姿を見て「私がママを守る」と誓ったといいます。

父親とはその後も交流はあったようです。

杉並区阿佐ヶ谷で育ち、地元の公立小学校、中学校に通っていたようですが、学校名は不明でした。
中学時代には通っていた中学のすぐ隣に唐十郎さんのアングラ劇団「状況劇場」が借りている家があり、奇抜な装いや生首などのおどろおどろしい小道具の山に興味を持ったといいます。

藤真利子の高校

藤真利子さんの出身高校は 不二聖心女子学院高校 (偏差値58)

静岡県裾野市桃園に私立の女子校。設置学科は普通科のみ。
カトリック系聖心会のミッションスクールで、お嬢様学校で知られます。
出身者には政治家の佐藤ゆかりさん、元フジテレビアナウンサーの千野志麻さんなどがいます。

高校時代は寮生活で、門限、消灯時間などはとても厳しかったそうです。
高校では演劇部に所属していました。

藤真利子の大学

藤真利子さんの出身大学は 聖心女子大学 文学部歴史社会学科(偏差値55)

東京都渋谷区広尾四丁目に本部があるい私立大学。

大学では中学1級、高校2級教員免許を取得しています。
大学4年生の時に父親の知人のプロデューサーに誘われたことがきっかけで、父親の猛反対を押し切り女優の道に進みました。

藤真利子の経歴

藤真利子のプロフィール

名前   藤真利子
生年月日 1955年6月18日
出身   東京都
身長   160cm
血液型  A型
所属   プロダクション尾木

1977年10月から放送されたTBSのテレビドラマ『文子とはつ』で女優デビュー。 22歳の時でした。 翌年の1978年9月から放送された『飢餓海峡』(フジテレビ)に杉戸八重役で出演すると、その演技が評価され、

第16回ゴールデンアロー賞・最優秀新人賞

をはじめ、多くの新人賞を受賞しました。

女優デビュー後は父親とは疎遠になっていましたが、肝臓癌で余命半年だということを知り、仕事をすべてキャンセルし、残された時間を一緒に過ごしました。

1985年10月公開の映画『薄化粧』で、

第9回日本アカデミー賞・優秀助演女優賞
第28回ブルーリボン賞・助演女優賞
第40回毎日映画コンクール・女優助演賞

を受賞しました。

テレビドラマでは2時間ドラマ、サスペンスで活躍し、多くの犯人役を演じ、火曜サスペンスでは最多犯人役で出演しています。

女優だけでなく、1979年6月には『シ・ナ・リ・オ』で歌手デビュー。
微美 杏里(びび あんり)の名義で、作詞も手掛け、沢田研二さん、萩原健一さん。近藤真彦さんなどに歌詞を提供しています。

藤真利子の結婚歴や夫、子供

藤真利子さんに結婚はしておらず独身で、結婚歴もありません。

30歳の時には、8歳年下で当時22歳だった近藤真彦さんとの熱愛が報道されましたが、関係は自然消滅したといわれています。

夫も子供いませんが、長年交際してる恋人はいて、当初は母親に交際を反対されましたが、母親の介護をでは支えられ、藤さんがいない時は母親に付き添ってくれたそうです。

母親を介護

藤真利子さんは母親の静枝さんが2016年11月に亡くなるまで11年間介護をしていました。

静枝さんは2005年6月に自宅のキッチンで脳梗塞で倒れ、右半身が完全に麻痺して寝たきりになり、会話も出来なくなってしまいました。
静枝さんは81歳、藤さんが51歳の時でした。

リハビリ病院を転々とした後、介護施設を探しましたが病状が重かったため受け入れ先が少なく、中には1000人待ちの施設もあったことから、在宅介護を決断。自宅をバリアフリーにリフォームしました。

介護のために仕事はセーブし、収入は大幅に減ったため、一時は父親の残してくれたお金に助けられたといいます。

長年交際している恋人にも助けられ、藤さんが留守の時は母親に付き添ってくれ、ヘルパーの資格も取得したといい、恋人の助けで自分の舞台に母親を自分の舞台に呼べたこともあったそうです。

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