「男はつらいよ」の大人気マドンナのなリリー役で出演したことでも知られる浅丘ルリ子さん。
50作中で6回登場しました。
この記事では浅丘ルリ子さんの学歴、経歴、生い立ちについて紹介しています。
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浅丘ルリ子の経歴・プロフィール
浅丘ルリ子の小学校
浅丘ルリ子さんの出身小学校は 千代田区の小学校
満洲国新京市(現・長春)で、4姉妹の次女として誕生。本名は浅井 信子(あさい のぶこ)。
父親は満洲国経済部大臣秘書官でした。
1943年、3歳の時に父親の転勤でタイのバンコクに転居。
タイでは2階建ての白い洋館に住み、使用人が何人もいたといいます。
1945年、タイで終戦を迎えると、一時はタイのバンバートン(Bang Bua Thong)抑留所へ強制収容されまししたが、翌年の1946年には引き揚げが開始。
最初に乗る予定だった引き揚げ船は、要人が乗ることになり乗ることができませんでしたが、その船は機雷にぶつかり沈没。
浅丘さん家族は命拾いしたといいます。
1946年8月、6歳の時に日本に引き揚げ、茨城の大洗、千葉の館山で生活した後、小学3年生の時に父親が代議士の秘書の仕事を得て、東京都千代田区神田に落ち着きました。
『生活はかなり大変だったけど、下町情緒が豊かでとても楽しかったわ』
自宅はガード下の借家で生活は貧しく、生活を支えるため自宅では雀荘「五月荘」を営んでいました。
小学生の時には美空ひばりにさんに憧れ、歌手になりたくて、6年生の時にテイチクのオーディションを受けましたが不合格になり、そこで歌手は諦めたといいます。
浅丘ルリ子の中学校 女優デビュー
浅丘ルリ子さんの出身中学校は 千代田区立今川中学校
東京都千代田区鍛冶町にあった公立中学校。
2005年に千代田区立神田一橋中学校に吸収合併される形で閉校になりました。
出身者にはアナウンサーの古舘伊知郎さんなどがいます。
中学2年生夏に読売新聞で連載されてた小説『緑はるかに』の映画化で、主人公のルリ子役の募集があることを知り応募。
3000人の応募の中から6人に絞られた中に残りました。
生活が貧しく自分のセーラー服はヨレヨレだったので、裕福な友達に頼んできれいなセーラー服を1日借りて最終オーディションに参加。
その場で腰近くまであった長い髪をバッサリと切られ、メイクをされてカメラオーディションをしたところ「この子しかいない」と小説の挿絵担当だった中原淳一さんの強い推薦で合格し、女優デビューしました。
芸名は役名の「ルリコ」と本人の名字から「浅」、映画『緑はるかに』のイメージから「丘」をつけて「浅丘ルリ子」に決まりました。
同映画での浅丘さんの髪型は「ルリコカット」と言われ、当時の女性の間で流行し、美少女として一躍脚光を浴びました。
浅丘ルリ子の高校
浅丘ルリ子さんの出身高校は 菊華高校
東京都杉並区阿佐谷南にあった私立の女子校で、2000年に男女共学化され、校名は杉並学院高校に改称されています。現在の偏差値は56~60。
出身者には俳優の天海祐希さん、プロゴルファー石川遼さんなどがいます。
人気女優になったことから高校は、多忙のために中退しました。
浅丘ルリ子の学歴
日活の看板女優
1955年に公開されデビュー映画『緑はるかに』でいきなり脚光を浴び、1955年に2本、1956年に5本、1957年にも5本の映画に出演。
1961年には世界一周早回りと国際親善をかねた「美しい東洋親善使節団」日本代表を務め、1964年には『夕陽の丘』で子供の頃に憧れていた歌手デビューを果たしました。
日本映画全盛期の日活の看板女優として活躍し、多くの映画でヒロインを演じ、出演映画は150本を超えています。
1987年の主演映画『鹿鳴館』では、
日本アカデミー賞・優秀主演女優賞
を受賞。
2014年発表の『オールタイム・ベスト 日本映画男優・女優』では女優4位にランクインしました。
男はつらいよのリリー
1973年公開の『男はつらいよ 寅次郎忘れな草』にヒロイン・松岡リリー(本名:清子)役で出演。
『男はつらいよ』にヒロインの中で最も人気のあるヒロインで、50作中6回登場。
2回目の1975年の『男はつらいよ 寅次郎相合い傘』では、
ブルーリボン賞・主演女優賞
キネマ旬報・主演女優賞
を受賞しました。
結婚・夫・子供
浅丘ルリ子さんは1971年4月、30歳の時に1歳年下の俳優・石坂浩二さん結婚。
馴れ初めは同年の1月に夫婦役で共演したドラマ『2丁目3番地』でした。
1月に共演後、3月23日には婚約が発表され、4月9日はに入籍するスピード婚でした。
5月には約20日間のヨーロッパ新婚旅行に出かけています。
大物同士の結婚で、新婚生活はたびたびマスコミの話題になっていたといいます。
結婚29年目の浅丘さんが60歳だった2000年12月に離婚。
子供はいませんでした。
『彼は「彼女は女優さんだし、両親の介護をさせるのは忍びない。ちゃんと見てくれる人がほしいんです」と会見を乗り切った。』
石坂さんは離婚の理由について「母親の介護問題」と話しました。
離婚後、石坂さんはわずか5日後に当時37歳だった、自身が主催して劇団の事務員をしていた女性と再婚して話題になりました。