テレビ草創期から女優、タレントとして第一線で活躍を続けた黒柳徹子さん。
徹子の部屋の放送回数は、ギネス記録に認定されています。
この記事では黒柳徹子さんの学歴、経歴、生い立ちを紹介します。
黒柳徹子の学歴
黒柳徹子の小学校
黒柳徹子さんの出身小学校は トモエ学園
父親は新交響楽団(NHK交響楽団の前身)のコンサートマスターも務めたヴァイオリン奏者の黒柳守綱さん、母親は随筆家の黒柳朝さん。
4人きょうだいの長女で、7歳年下の弟はヴァイオリン奏者の黒柳紀明さん、11歳年下の妹は元バレリーナで美容師に転身した黒柳眞理さん、もう1人の弟は幼くして敗血症で亡くなっています。
東京府東京市赤坂区乃木坂(現在の港区の乃木坂)で生まれ、ヴァイオリニストの父親の練習場が移ったため洗足駅に近い大森区北千束町で育ちました。
小学校は尋常小学校に入学しましたが、授業中に机のフタを授業中に何回も開け閉めしたり、学校にチンドン屋を呼び込んだりと落ち着きがなく、問題児とされ入学後3ヶ月で退学。
大人になってから、それらの行動が発達生涯によるものだと分かったそうです。
退学後はトモエ学園に転校しました。
東京都目黒区自由が丘にあった私立学校で、1978年に閉校になっています。
同級生には女優の池内淳子さんがいました。
尋常小学校では問題児とされましたが、トモエ学園では校長先生が「きみは本当は、いい子なんだよ」と言い続けてくれて学校生活は楽しかったといいます。
1945年3月の東京大空襲以降は青森県に縁故疎開、終戦後は東京に戻りました。
黒柳徹子の中学校・高校
黒柳徹子さんの出身中学校・高校は 香蘭女学校
東京都品川区旗の台六丁目にある私立学校で、現在の香蘭女学校中等科・高等科。
旧制女学校の修学は5年で、現在の制度では中学校、高校にあたります。
現在の中等科の偏差値は60、完全中高一貫制のため高校は生徒募集はありません。
出身者には歌手のカルメン・マキさん、女優の片桐はいりさんなどがいます。
黒柳徹子の大学
黒柳徹子さんの出身大学は 東洋音楽専門学校 声楽科
東京都目黒区上目黒一丁目にある、現在の東京音楽大学。
高校時代は映画『トスカ』を観て、それがオペラだだと知り、『あのような人になりたい』とオペラ歌手を志して入学しました。
セリフなら覚えられましたが、メロディがつくとなぜか歌詞が覚えられず、学校は卒業しましたがオペラ歌手断念しました。
黒柳徹子の経歴
音楽学校卒業後は仕事が見つからずに苦労し、いつか結婚して普通の奥さんになるのなら、自分の子供に上手に絵本の読めるお母さんになりたいと思い、母親に相談すると新聞にNHKがテレビ俳優を募集している広告があることを教えられ、
『NHKに行けば本の読み方を教えてくれる』
と応募し、約6000人の応募者の中から第6次までの審査を経て、1953年にNHK放送劇団に5期生として入団。
テレビ女優の第1号としてデビューし、ラジオ、テレビで端役で活動した後、1954年4月に放送が開始されたラジオドラマ『ヤン坊ニン坊トン坊』に出演し、ラジオドラマ史上初めて大人の女性が子供の声を演じたことで、一躍有名になり、1958年には『第9回NHK紅白歌合戦』の赤組司会を担当。
20代後半には週に6~7本のレギュラー番組を抱えていました。
女優として舞台出身の俳優との間に演技力の差を感じ、1963年に文学座附属演劇研究所に3期生として入所。
1971年からは1年間ニューヨークに留学し、帰国後の1972年10月からは日本初の女性司会者によるワイドショーで『徹子の部屋』の前身番組となる『13時ショー』のメイン司会を担当。
1976年2月から『徹子の部屋』が放送開始。
2011年4月には放送回数8961回となり、同一司会者による番組の最多放送回数記録としてギネス世界記録に認定されました。
黒柳徹子の結婚や子供
黒柳徹子さんに結婚歴なく、夫も子供はいません。
結婚して子供に絵本などを読み聞かせるお母さんになろうとしていることから、若い頃は結婚願望はあり、何度もお見合いの話しもあったといい、3度のお見合いを経験しているといいます。
お見合い相手との結婚を考えたことあったそうですが、最終的には破談になったそうです。
ニューヨークに留学をしていた38歳の時には、ピアニストの男性と出会い恋愛に発展。
『パリに一緒についてきてほしい』
とプロポーズをされしたが、日本での仕事を辞めることが出来なかったため、遠距離連恋愛で年に1~2度ほど会いに行く生活を約40年続け、2012年に男性は亡くなったそうです。
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