『非っ常にキビシー!』や『○○してチョーダイ!』などのギャグでブレイクした、俳優の財津一郎さん。
タケモトピアノのCMにも長く出演していたことでも知られます。
この記事では財津一郎さんの学歴、経歴、生い立ちを紹介します。
財津一郎の学歴
財津一郎の小学校
財津一郎さんの出身小学校は 不明
熊本県熊本市出身、本名は財津 永栄(ざいつ ながひで)。
財津家は、神武天皇の時代から続く名家で、地元の大地主でした。
父親は農林省(現・農林水産省)の役人、3人兄弟の末っ子。
幼少期は東京に住んでいましたが、父親が日中戦争に出征したため、1944年、10歳の時に家族で熊本県熊本市に疎開しました。
財津一郎の中学校
財津一郎さんの出身中学校は 済々黌中学校
1947年に、阿蘇にある財津家の土地を守るために阿蘇郡黒川村(現・阿蘇市)に移り、済々黌中学校から旧制阿蘇農業高等学校(現・阿蘇中央高校)へ転校しました。
阿蘇中央高校は、熊本県阿蘇市一の宮町にある男女共学の県立高校で、現在の偏差値は46。
戦後は農地改革で、多くの土地を手放しましたが、『地主の子』といじめられたといいます。
財津一郎の高校
財津一郎さんの出身高校は 済々黌高校(偏差値73)
熊本県熊本市中央区黒髪にある男女共学の県立高校。
出身者にはくりぃむしちゅーの上田晋也さん、有田哲平さんなどがいます。
1949年に再び熊本市に戻り、済々黌高校に入学しました。
高校卒業後、1953年に上京し早稲田大学学部演劇学科受験しましたが失敗し、アルバイトをしながら当時東京都大田区にあった榎本健一映画演劇研究所に入所しました。
財津一郎の経歴
榎本健一映画演劇研究所で演技を学びながら、同時に帝劇ミュージカルの研究生になり、2年間勉強した後、多くの卒業生が京都の撮影所に入り映画の仕事をもらう中、財津一郎さんは『もっと東京で修業を積みたい』と東京に残りました。
しかし、なかなか俳優の仕事はなく、アルバイトで食いつないでいましたが、アルバイトの仕事もあまりなかったといいます。
そんなある日、野球場の傍を通りがかると、野球ボールが飛んできて、拾って渡すとその相手は俳優の仲代達矢さんでした。
仲代達矢さんはすでに人気俳優、財津さんは憧れていて、憧れの俳優を前になんとも言えない情けなさがこみ上げてきて奮起。
1955年に喜劇役者・石井均さん主催の『石井均一座』に入団しましたが、1年で一座は解散。
その後、『劇団ムーラン』に入団しましたが、数年で解散し、1962年に吉本興業に入り。
1964年に吉本新喜劇に参加すると、翌年の1965年には30歳で吉本新喜劇座長に就任。
同時期に朝日放送の藤田まことさん主演のコメディ番組『てなもんや三度笠』に浪人・蛇口一角(へびぐち いっかく)役で出演し、『非っ常にキビシー!』『○○してチョーダィ!』のギャグが評判になり一世を風靡。
1969年には吉本興業を退社、活動拠点を東京に移すと、喜劇以外の作品でも活躍し、1979年には『3年B組金八先生』に英語教師・左右田 役で出演、1984年の映画『お葬式』では、
第8回日本アカデミー賞・優秀助演男優賞
を受賞。
2001年8月、67歳の時からタケモトピアノのCMに出演し、2023年8月まで23年間放送されました。
財津一郎の結婚と晩年
財津一郎さんが結婚したのは1960年、25歳の時で、妻は4歳年上で同じ劇団『石井均一座』に所属していた舞台女優のミドリさん。
子供は1961年8月に息子の功さんが誕生し、日本テレビに勤務していました。
財津一郎さんは1995年、61歳の時に脳内出血を発症、開頭手術をして半身に軽い麻痺が残りましたが、リハビリに励み3ヶ月後にドラマで復帰、しかし、2004年、70歳の時に肺の前がん病変と診断され、左肺の半分を切除。
2010年11月公開の映画『ふたたび swing me again』で主演を務め、は2011年3月の『3年B組金八先生ファイナル』の出演を最後に活動を休止。
妻のミドリさんは自宅で転んで骨折して以来、介護が必要になり、2020年に亡くなるまで財津さんが介護をしていました。
2023年4月のインタビューでは、月に1度のゴルフを楽しみにしていると話し、7月まではゴルフをしていましたが、9月から体調が悪化し、2023年10月14日に慢性心不全のため東京都の自宅で、89歳で亡くなりました。
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