東京都出身の音楽評論家、作詞家の湯川れい子さん。
この記事では湯川れい子さんの学歴、経歴、生い立ちなどについて紹介しています。
湯川れい子の経歴・プロフィール
湯川れい子の小学校
湯川れい子さんの出身小学校は 東京府青山師範学校附属国民学校
東京府東京市目黒区芳窪町(現・東京都目黒区東が丘)生まれ。
父親は海軍大佐だった湯野川忠一さん。兄が2人、姉が1人いる4兄弟。末っ子だったので父親には甘やかされてそだったといいます。
実家にはピアノがあり、両親の影響で音楽と読書が好きでした。
小学校は東京府青山師範学校附属国民学校に入学。
同校は現在は東京都世田谷区深沢4丁目にある国立学小学校の東京学芸大学附属世田谷小学校です。
8歳の時に父親が肺炎のために他界。
その後、山形県米沢市に疎開し1947年3月まで過ごしました。
湯川れい子の中学校・高校|俳優デビュー
湯川れい子さんの出身中学校・高校は 鷗友学園女子中学校・鷗友学園女子高校
東京都世田谷区宮坂1丁目に私立の女子校。
1935年(昭和10年)に創立した学校で、中学校の偏差値は67。完全中高一貫制のため高校での生徒募集はありませんが、毎年何人もの東京大学の合格者は出すレベルです。
出身者には俳優の岡江久美子さん、小沢真珠さんなどがいます。
中学時代にまだ日本のラジオではまだ流れていなかったジャズやハワイアンを米軍放送で聴くようになり、ジャズに興味を持ちました
当時から詩を書くのが好きで、中学生の時にはノートに詩を書き留めていたそうです。
英語の曲に興味を持った湯川さんは英語を学ぶために弁当持参で映画館に通い、1回目は字幕を見ながらセリフに耳を澄まし、2度目はなるべく字幕を見ないようにして、1日4回観たといいます。
高校生の時には女性にも参政権が認められるなど日本が大きくかわり、高校時代には女優、詩人、医者などいろいろなものになりたいと思っています。
高校2年生の時に新聞の広告で見つけた事務所のオーディションを受け合格。
1953年、17歳の時に日本青年館で舞台『未亡人』で女優デビューしました。
高校卒業後は大学などには進学しませんでした。
湯川れい子の学歴
タレント、ジャズ評論家、作詞家として活躍
俳優デビュー後はテレビ番組でもレギュラー番組を持つなどタレントとしても活動。
タレント時代はジャズ喫茶にハマり、1杯30円のコーヒーでねばって聞き続けていたといいます。
1959年、19歳の時にジャズ専門誌『スイングジャーナル』に投稿すると反響があり、編集部からのオファーで1960年から同誌でジャズ評論家として執筆を開始。
その後はラジオのパーソナリティやワイドショーのコメンテーターとして活躍しながら、作詞、翻訳、ノンフィクション作家など活躍の場を広げました。
作詞家としてはアン・ルイスさん、加山雄三さん、小泉今日子さん、ラッツ&スター(シャネルズ)など多くのアーティストに詩を提供。
代表的なヒット曲に 『涙の太陽』、『ランナウェイ』、『ハリケーン』、『センチメンタル・ジャーニー』、『ロング・バージョン』、『六本木心中』、『あゝ無情』、『恋におちて』などがあります。
結婚歴や夫、子供
湯川さんには2度の結婚歴があり、最初の結婚は1950年代で、結婚相手は湯川さんが小学6年生の頃から実家に下宿していた一橋大学卒の会社員の男性。
離婚したのは1966年でした。
1973年8月に5歳年下で電化製品販売会社を経営していた田村駿禮(たむた たかのり)さんと再婚。
田村さんとはエルビス・プレスリーのハワイコンサートがきっかけで出会い、結婚証明書の証人プレスリーさんだったといいます。
不妊治療を経て息子が誕生しましたが、結婚20年目の1993年に田村さん愛人と隠し子が発覚の。
1998年に離婚しました。
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