高校、大学も一般入試で入学し社会人を経てプロになり、日本を代表するキャッチャーとなった古田敦也さん。
この記事では元プロ野球選手の古田敦也さんの学歴、経歴、生い立ちなどについて紹介しています。
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古田敦也の経歴・プロフィール
古田敦也の小学校|3年生の時に野球を始める
古田敦也さんの出身小学校は 川西市立加茂小学校
兵庫県川西市出身。兄と妹がいる3人兄弟の真ん中。
父親は自動車会社に勤務する会社員、母親も事務員として働いていて両親は共働きでした
小学校は兵庫県川西市加茂3丁目にある川西市立加茂小学校を卒業。
同小学校の卒業生には元プロ野球選手の屋敷要さんがいます。
外で遊ぶの好きな子供で、小学3年生の時に友達に誘われるかたちで地元・川西市のの少年野球チーム「加茂ブレーブス」に入団。
100人ほどの小学生が所属する大きなチームで、AからDの4チームに分かれていました。
最初はDチームに入れられ、「誰かキャッチャーやるやつはいないか?」と質問され、当時は太っていたことから隣にいた友人が「古田君ができます」と言ったことからポジションがキャッチャーになったそうです。
6年生の時にはキャプテンに抜擢され、4番も努めました。
古田敦也の中学校|いじめに遭い転校
古田敦也さんの出身中学校は 宝塚市立南ひばりガ丘中学校
中学校は地元の川西市立川西南中学校に通っていましたが、野球の上手かった古田さんを妬んだ先輩に砂利道に正座をさせられて先輩がその上を歩く、殴る蹴るなどのイジメに遭い、1度1年の1学期で野球をやめています。
野球やめると親に話すといろいろなところに掛け合ってくれ、夏休み明けの2学期から隣接する学区の宝塚市立南ひばりガ丘中学校に転校しました。
転校によって前向きになり、野球も続けることができキャッチャーとして活躍しました。
古田敦也の高校|強豪の誘いを断り公立高校に進学
古田敦也さんの出身高校は 川西明峰高校 (偏差値42)
兵庫県川西市萩原台西2丁目にある男女共学の兵庫県立高校。
1976年4月に開校した高校で、出身者には岩本優さん(プロゴルファー)などがいます。
小学生の頃の夢はプロ野球選手でしたが、中学生になると考え方が現実的になり、私立から誘いもありましたが断っています。 強豪校だと部員が多くてレギュラーになって試合に出られるかわからないので、自宅から一番近い川西明峰高校を選び入学したそうです。
高校でも野球部に入りましたが、当初は野球も高校でやめるつもりだったといいます。
3年生になるとキャプテンになり、キャッチャーで4番も任されましたが、高校時代は県大会3回戦進出がベスト記録でした。
大学には野球推薦にではなく、普通に受験して入ろうを3年生の夏の予選終了後の8月から本格的に受験勉強を始めました。
古田敦也の大学|一般入試で受験
古田敦也さんの出身大学は 立命館大学 経営学部(偏差値58)
京都府京都市中京区西ノ京朱雀町に本部がある私立大学。
経営学部は大阪いばらき(大阪府茨木市)キャンパスです。
大学受験では立命館大学経営学部と関西大学商学部に一般受験で合格。
高校の野球部の監督の紹介で立命館大学の練習に参加し、立命館の中尾監督には「来てほしい」と言われましたが、自宅から近い関西大学に行こうと決め、中尾監督に断りに出向くと、「ついに決心してくれたか!」と握手をされてしまい、押し切られるかたちで立命館大学に入学することになったそうです。
中尾監督は体育会にありがちな軍隊的指導を嫌う人で、伸び伸びとした部の雰囲気でしたが、立命館は野球の名門でもあり練習はこれまで一番厳しかったといいます。
当初はプロになること考えていませんでしたが、3年の関西学生リーグで春秋 連続優勝し、4年にはキャプテンになり日本代表にも選出されたことで本気でプロを目指そうと考え始めました、
本人も大学側も指名されると踏んで、会議室に記者会見ようのひな壇も準備されていましたが、どこからも指名されることはありませんでした。
どのチームも「メガネをかけたキャッチャーは大成しない」と判断したといいます。
古田敦也の学歴
日本を代表する名捕手として活躍
大学でドラフトに指名されなかった古田さんは「絶対に見返してやる!」と気持ちを切り替えて、まずはその年に開催されるソウルオリンピックを目指そうと一般学生としてトヨタ自動車の新卒採用に応募。1988年に入社し野球部にも入部しました。
人事課で働きながら野球を続け、ソウルオリンピックの代表に選出。銀メダルの獲得に貢献しました。
1989年のドラフト会議でヤクルトスワローズに2位指名を受け、年俸700万円、契約金4300万円で入団。
入団当初の野村監督の評価は高くなく、控えに回されましたが、生捕手に選んだ秦真司さんや他の捕手のリードも野村監督は納得できなかったため、古田さんが出場することになり、すぐにスタメンに定着。
入団2年目の1991年には首位打者のタイトルを獲得し、4年目の28歳の時には年俸1億2000万円。
1997年から2003年までは7年連続で2億円。
最高年俸は2004年、2005年の3億円でした。
2006年には野村克也さん以来29年ぶりとなる選手兼任監督として活躍。
2007年で現役を引退し監督も退任しました。
引退後は解説者、コメンテーター、キャスター、臨時コーチとして活動しています。
妻との馴れ初めは子供
古田さんは1995年12月、30歳の時に同い年でアナウンサーの中井美穂さんと結婚。
中井さんが同僚のアナウンサーに誘われて、古田さんと3人で食事に行ったことが馴れ初めで、1993年の夏に交際に発展したそうです。
子供はいないようです。
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