「男はつらいよ」シリーズなどを生み出した日本を代表する映画監督の山田洋次さん。
この記事では山田洋次さんの学歴、経歴、生い立ちや、映画監督になったきっかけ、結婚や妻、子供などについて紹介しています。
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山田洋次の経歴・プロフィール
山田洋次の小学校
山田洋次さんの出身小学校は 新京の小学校
大阪府豊中市生まれ。兄と弟がいる3人兄弟の真ん中。
父親は九州大学工学部卒の技術者で、大阪の汽車製造会社で蒸気機関車の設計の仕事を担当していました。
父親は黙々と仕事をこなく人で、母親は明るく楽天的な人だったといいます。
大阪で生まれたの後、父親が満州鉄道に入ったため、3歳の時に旧満州に移りました。
4歳からは内陸の吉林で育ち、小学校は新京(現・長春市)の小学校に入学。
14歳の時に現地で終戦は迎え、大連から一家で日本に引き上げました。
山田洋次の中学校
山田洋次さんの出身中学校は 旧東京都立第八中学校
旧制大連第一中学校に入学しましたが、終戦後に引き揚げ、旧東京都立第八中学校に入学。
東京都品川区小山3丁目にあった旧制中学校で、現在の東京都立小山台高校(偏差値68)です。
同校の出身者には映画監督の押井守さんなどがいいます。
入学後間もなく山口県宇部市の伯母の家に移り、15歳から18歳までは山口で暮らしました
山田洋次の高校
山田洋次さんの出身高校は 宇部高校 (偏差値64~66)
山口県に移った後、1947年に旧制宇部中学校(現・宇部高校)3年に編入。
山口県宇部市寺の前町にある男女共学の山口県立高校。
設置学科は普通科(偏差値64)、探求科(偏差値66)。
出身者には映画監督の庵野秀明さん、元総理大臣の菅直人さんなどがいます。
1948年、四修の飛び級で旧制山口高校(現・山口大学)に入学しましたが、在学中に学制改革を経験。
学制改革により、1949年に旧制山口高校を1年で卒業しました。
山田洋次の大学 たまたま松竹に入社
山田洋次さんの出身大学は 東京大学 法学部 (偏差値72)
東京都文京区本郷7丁目に本部がある国立大学。
1950年、大学に入学した頃に両親は離婚しています。
法学部に入りましたが、役人や会社員には自分は向かないんじゃないと悩んでいるうちに学校はサボり気味になり、出席日数はギリギリでしたが、1954年に大学を卒業。
『僕らが卒業したのは,日本の経済が復興していない時代だから就職難で,こんな成績じゃ名の通った企業はムリだよって言われて。』
映画監督を目指していたわけではありませんが、マスコミは学業の成績を重視しないといわれ、新聞社や映画会社の試験を片っ端から受け、たまたま補欠で受かった映画会社の松竹に入社。
映画は当時の日本の最大の娯楽だったこともあり、よく観てはいたそうです。
山田洋次の学歴
映画監督デビュー後
1954年、松竹に補欠入社。同期には大島渚さんがいましした。
脚本家、助監督を務めた後、1961年『二階の他人』で監督デビュー。
その後、テレビドラマの脚本も担当するようになり、1968年にフジテレビの連続テレビドラマ『男はつらいよ』の原案・脚本を担当。
ドラマはヒットしましたが、最終回は寅さんがハブに噛まれて死ぬというストーリーで、放送後に抗議が殺到したことで映画化が決定。
翌年の1969年に映画『男はつらいよ』の第1作が公開されました。
当初、監督は山田監督だけでなく、輪番でした。
1作目の配給収入はは1億1000万円でしたが、12作目には10億円を突破。
国民的大人気シリーズになりました。
1978年『幸福の黄色いハンカチ』、1994年『学校』、2003年『たそがれ清兵衛』では、日本アカデミー賞・最優秀監督賞、最優秀脚本賞を受賞しています。
結婚歴や妻、子供
山田洋次さんは1954年5月、22歳の時に1歳年下のよし恵さんと結婚。
よし恵さんは日本女子大学卒業後、出版社に勤務。結婚後も勤務していましたが、子供が出来たこと機に退職。
子供が成長した後は女性雑誌の研究家として活動していました。
よし恵さんはがんのため2008年に76歳で死去しています。
子供は娘が2人で、長女はピアノの先生、次女はTBSに就職しディレクターとして2時間ドラマ、バラエティ番組、ドキュメンタリー、音楽番組の制作にかかわりました。
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