「たんぽぽ」、「お葬式」などで知られ、監督を務める映画は「伊丹映画」と言われた映画監督の伊丹十三さん。
デザイナーから俳優に転身し、映画監督になりました。
この記事では伊丹十三さんの学歴、経歴、生い立ちを紹介します。
伊丹十三のプロフィール・経歴・生い立ち
伊丹十三の小学校
伊丹十三さんの出身小学校は 京都師範男子部附属国民学校
京都府京都市右京区出身。本名はは池内 義弘(いけうち よしひろ)。父親は映画監督、脚本家の伊丹万作さん。
1938年4月、4歳の時に父親の東宝への移籍に伴い、東京市世田谷区祖師谷に転居、小学校は世田谷区立桜第一小学校に入学。
1941年に父親の東宝退社の伴い、京都市上京区(現・北区)に戻り、京都師範男子部附属国民学校(現・京都教育大学附属京都小学校)に転校、1944年には同校の特別科学教育学級に編入されました。
この学級は戦時中としては例外的な早期英語教育を受けた学級で、将来が有望と版出された子供が集められ、当時は敵性言語とされていた英語の授業も行われていたといい、クラスメイトには経済学者の貝塚啓明さん、日本画家の上村淳之さんがいました。
伊丹十三の中学校
伊丹十三さんの出身中学校は 京都府立山城高等学校併設中学校
1946年、京都府立第一中学校(現・京都府立洛北高等学校)入学。
同年に肺を患っていた父親が死去。
その後、1947年10月に京都府立洛北高等学校併設中学校に転校、1948年10月には京都府立山城高等学校併設中学校に転校しました。
伊丹十三の高校
伊丹十三さんの出身高校は 松山南高校(偏差値66)
1949年4月、高校は京都府立山城高校に入学。
京都府京都市北区大将軍坂田町にある府立高校で、現在の偏差値は59~65。
1950年1月の同高校は休学し、母親と妹と愛媛県松山市小坂町の寺院・多聞院の一室に移り、4月に1学年遅れで松山東高等学校に転入。
愛媛県松山市持田町にある県立高校で、現在の偏差値は69。
同高校では文芸部、演劇部に所属。
1951年、2年生の時には、ノーベル文学賞受賞者となる大江健三郎さんが転入してきて交流を持ちました。
演劇部の裏方として公演に参加した後、同年10月から高校を休学。
翌年の1952年4月に松山南高校の2年に編入、1954年3月、20歳で同高校を卒業。
大学は大阪大学を受験しましたが不合格でした。
高校卒業後は上京、映画会社の新東宝に入社し、編集部で編集助手の仕事を担当しました。
伊丹十三の学歴
映画監督デビュー
新東宝を経て、商業デザイナーに転身し車内の吊り広告や、目次のデザインなどを手がけました。
その後、舞台芸術学院で芝居を学び、1960年1月、26歳のと時に映画会社の大映に入社し、俳優となり、同年、「嫌い嫌い嫌い」で映画デビュー。
同年7月、知人の紹介で出会った、国際的映画人として知られた川喜多長政・川喜多かしこ夫妻の娘・川喜多和子さんと結婚しました。
1961年に大映を退社後は、海外映画に出演。
1962年には妻の川喜多和子さんと自主短編作品「ゴムデッポウ」を制作。
1966年に川喜多和子さんと協議離婚。
1969年に女優の宮本信子さんと結婚。
宮本信子さんとは1965年からのドラマ「あしたの家族」(NHK)で出会い不倫交際でした。
1970年代後半には「アフタヌーンショー」のレポーターを務めるなどタレントとしても活躍.
1984年に51歳で、「お葬式」で映画監督としてデビュー。
山崎努さんと妻の宮本信子さんのダブル主演で、伊丹十三さんは、
「妻はいい女優なのに、なかなか主役の話が来ない。ならば彼女を主役にした映画を自分で撮ってしまえば良い」
と宮本信子さんを起用したと話しました。
デビュー映画で、日本アカデミー賞・最優秀監督賞、最優秀脚本賞などを受賞。
受賞した映画賞は芸術選奨新人賞など30を超えました。
映画「お葬式」は妻の宮本信子さんの父親の葬式がきっかけで、わずか1週間でシナリオを書き上げたといいます。
1987年、3作目の「マルサの女」でも日本アカデミー賞・最優秀監督賞、最優秀脚本賞を受賞しました。
日本の社会に対する強い問題意識をもちながら、かつエンターテインメント性に富む映画を制作し、一躍当時の日本を代表する映画監督となり「伊丹映画」というブランドを築きました。 </p
伊丹十三の晩年
1992年の「ミンボーの女」ではゆすりをやる暴力団は市民が勇気を持って賢く行動すれば引き下がることを描き、公開1週間後に自宅の近くで刃物を持った5人組に襲撃され、顔や両腕などに全治3ヶ月の重傷を負いましたが、「映画で自由をつらぬく。」と宣言。
1993年の「大病人」が公開中に自称右翼の男が、「ミンボーの女」でに絡んで、「日の丸を恐喝の場面の小道具に使うのは許せない」とビラを撒いた後、「大病院」上映中にナイフでスクリーンを切り裂くという事件が発生。
襲撃や被害を受けたことで身辺警護をつけ、この経験は1997年の「マルタイの女」で映画化されました。
1997年12月20日、伊丹プロダクションのある東京都港区麻布台3丁目のマンション南側下の駐車場で、飛び降りたとみられる遺体となって発見。
「ミンボーの女」の公開後に襲撃事件があったことから、当初から暴力団の関与を疑う声もありましたが、事務所にワープロで遺らしきものが残されており、「身をもって潔白を証明します。なんにもなかったというのはこれ以外の方法では立証できないのです。」との文言があったことから、一部の週刊誌で不倫疑惑が取り沙汰されたことに対する抗議の投身自殺か、とも推測されるようになりました。
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