間寛平の学歴・経歴・生い立ち〔大学 高校 中学校 小学校〕

学歴 間寛平 芸人

「かい~の」や「血ぃ吸うたろか」などのギャグが有名なお笑い芸人の間寛平さん。
マラソンランナーとしも知られますが、マラソンを始めたきっかけはある日見た夢でした
この記事では間寛平さんの学歴、経歴、生い立ちについて紹介しています。

間寛平の学歴

間寛平の学歴

小学校  大阪市立住吉川小学校
中学校  大阪市立加賀屋中学校
高校   柏原高校
大学   進学していません

間寛平の小学校

間寛平さんの出身小学校は 大阪市立住吉川小学校

1949年7月20日、高知県幡多郡橋上村出井(現・宿毛市)生まれ。本名は間 重美(はざま しげみ)。
実父は生まれる2ヶ月前に23歳の若さで結核で他界。
2歳の時に母親は林業関係の仕事をしていた義父と再婚しました。兄弟は6歳年下の弟がいます。
名字の「間」は再婚相手の姓で、実父の姓は岡村でした。

小学校は宿毛市楠山小学校出井分校に入学。生徒が学年で6人だったといいます。
木炭の需要の減少で林業での生活が厳しくなったことから、12歳の時に大阪府大阪市住之江区に引越し、小学校は大阪市立住吉川小学校に転校。
この時に実父の存在を初めて聞いたそうです。 。

間寛平の中学校

間寛平さんの出身中学校は 大阪市立加賀屋中学校

同中学校の出身者には元プロ野球選手の高田繁さん、黒田博樹さんなどがいます。
中学時代は材木屋や新聞配達のアルバイトをして小遣いを稼いでいました、
またジャズに熱中していたといいます。

『トラックでも買うて働こう』

中学卒業後は働こうと思っていましたが、恩師に高校進学を勧められ高校を受験しました。

間寛平の高校

間寛平さんの出身高校は 柏原高校 (偏差値35~40)

大阪府柏原市本郷にある私立の男子校。設置学科は普通科のみ。
1963年に女子校として設立され、その後、男女共学時代を経て、1969年に男子校となりました。
2006年には校名が東大阪大学柏原高校と改称されています。
出身者にはお笑い芸人の板尾創路さん、タレントのはるな愛さんなどがいます。

高校時代は野球部に所属。部員数が多く1年だけでも150人いたといいます。
芸名の「寛平」は高校のクラスメートに付けられたニックネームで、命名理由は不明だそうです。

間寛平の経歴 歌手を目指して上京

間寛平のプロフィール

名前   間寛平
生年月日 1949年7月20日
出身   高知県宿毛市
身長   164cm
血液型  AB型
所属   吉本興業

高校卒業後は石原裕次郎さん、小林旭さんに憧れ、歌手を目指して上京。

『信じて疑わなかったね。キャバレーで有名な歌手と知り合いになって、「付き人にしてください」と頼めば歌手デビューできると思ったんや』

上京後は中学時代の同級生が働いていた、日暮里のキャバレーで働きましたが、有名人が来ることはなく、大阪にいる中学の同級生に「ダンプの運転手が足らんのやけど、うちの会社で働いてくれへんか」と電話をもらい帰郷。
ダンプで工事現場の残土を運んでいましたが。大阪万博が開催されると仕事が減り行き先を案じて、タイル屋に弟子入りしました半年経ってもうまく貼ることができず退職。
その後は母親に泣きついて買ってもらった中古のクラウンで、たまたま競艇場に向かう人を乗せてあげたことをきっかけに「白タク」家業を開始。
しかし、間もなく車が大型トラックに追突され、10日間の入院を余儀なくされました。

お笑い芸人デビュー

事故で入院中の楽しみがラジオとテレビだけで、お笑い番組を見て「好きなことを言えて仕事になるのはええなぁ」と思い、お見舞いに来た友人に、

『俺、こんなんやってみたいんやけど』

とテレビを指差すと、友人のアルバイトをしているディスコによく吉本の芸人がくるといい、関係者を紹介してくれ劇場に出入りするようになり、「千日劇場」、「温泉劇場」(ストリップ劇場)での修業を経て、1970年、21歳の頃に吉本興業に所属。
当初は名前だけでも笑ってもらおうと思い、「ふんどししめよ」と名乗っていましたが、吉本の社長に怒られ、悩んだ末に思い出した高校時代のニックネーム「寛平」に改名しました。

吉本新喜劇で活躍後東京に進出

吉本興業に入った後、吉本新喜劇の研究生になり、花紀京の付き人として活動。
ギャグで人気を集め、入団4年目の1974年、24歳で吉本新喜劇の座長に昇格。
1975年に『ひらけ!チューリップ』で歌手デビューすると、100万枚売る上げる大ヒットを記録。
1986年には自身のギャグ「アメマ」の「アメマバッジ」10万個作成で6000万円の借金を抱えました。
1989年に吉本新喜劇を退団し東京にに進出。
1990年から放送を開始した日本テレビのクイズ番組『マジカル頭脳パワー!!』にレギュラー解答者として出演し人気を集めました。

マラソンランナーとして活躍

間寛平さんがマラソンを始めたのは1980年代半ば。
きっかけは夢だったといい、ある日、長距離をすいすい走っている夢を見て、そのことを池乃めだかさんに話すと、

『それは走ってみろという神さんのお告げやないか』

と言われ、たまたま早起きした朝、試しに走ってみると想像以上に走れることに気付き、それから毎日走るようになったといいます。
それが関係者の間でも知られるようになり、1986年にテレビのオファーで30kmの青梅マラソンを走ると2時間26分を記録。
その後、ホノルルマラソンでは初フルマラソンで3時間13分を記録。
1992年には『24時間テレビ』の初代チャリティマラソン走者として出演し、1993年と1995年にも走りました。
1998年のラスベガスマラソンでは48歳で、3時間8分42秒の自己最高を記録。
ギリシャの鉄人マラソン「スパルタスロン」では246kmを3度も完走。
2008年からは「アースマラソン」に挑戦。途中でがん発覚し治療のため中断しましたが、2011年1月21日に2年1か月のアースマラソン4万1000kmに及ぶ長い旅を終えゴールしました。

間寛平の結婚歴や妻、子供

間寛平さんは29歳の時に、9歳年下で20歳だった光代さんと結婚。
妻の光代さんが吉本新喜劇の後輩でした。

光代さんは児童劇団に所属していましたが、吉本興業関係者にスカウトされ、高校卒業後に吉本新喜劇に入団。
兵庫県宝塚市から通っていた光代さんを車で実家まで送るようになり、交際がスタートしました。

『付き合いだして2年くらい、彼女が二十歳になったころですね。会社も僕にしっかりしてもらうために結婚させたがっていました。』

結婚後、光代さんは吉本興業を辞めて妻として寛平さんを支えました。

間寛平の子供

間寛平さんの子供は娘と息子の2人。
1981年3月27日に誕生した息子の間慎太郎さんはシンガーソングライター。
2004年にシンガーソングライターとしてデビューし、2006年10月25日にシングル『淋しん坊の絵描きさん』をリリース。
俳優としても活動していて、2018年の『Jimmy~アホみたいなホンマの話~』(Netflix)では若き日の父・寛平を演じました。

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